ポーランドの秘められた友情
日露戦争とポーランド
ポーランドの親日ぶりに関しては多くのエピソードがあるが、 この日本への好意が生まれるに至った経緯や、 その友情や好意は第二次大戦が終わり、 さらに冷戦構造が崩壊しポーランドが西欧の一国となるまでは、 ポーランドの対ソ配慮などもあり明らかにされることはなかった。 日本とポーランドを強く結び付けたのは、 ポーランドを支配していたロシアに対する日本の挑戦 - 日露戦争であった。 日露の風雲が急を告げると、ポーランド人は日本政府や日本軍の支援によって対ロシア蜂起が可能になると期待し、独立派や革命派の指導者がパリで、ウィーンで、そしてロンドンで日本の在外公館員に接近してきた。ロンドンでは独立派のイワノフ・ヨットコが駐英大使林薫にポーランド人の反ソ感情は本能的なものであり、在外ポーランド人部隊を編成し日本軍に協力したい。 満州に展開されているロシア軍の中には多くのポーランド人がいるので、日本軍に降伏するよう降伏勧誘文書を配布すべきである。 また、 ロシア国内で破壊活動を実施したいなどと申し出て資金援助を依頼した。
一方、パリではポーランド社会党員のヴァツワフ・ストゥドニツキがスエーデン駐在陸軍武官の明石元二郎大佐に、日本政府がアメリカ在住ポーランド人から1万人程度の義勇軍を募り、独立ポーランド軍を編成すればロシア軍内のポーランド人が動揺し、日本軍に降伏するするであろうと申し出た。
さらに、 民族連盟の指導者ローマン・ドモフスキ、イギリス国籍の新聞記者のジェイムス・ダグラス、ポーランド社会党のユーゼフ・ピウスツキ、同党幹部のテイトゥス・フィリポーヴィチなど4名が1904年春から夏にかけて来日した。これらの渡航資金は明石大佐が与えたといわれているが、独立派や社会派の指導者が日本の資金で来日したことを当時の国際情勢や国内情勢から公表できなかったためか、ポーランドの独立運動に同情的なアメリカ人富豪セヴァエリン・ユング(ユダヤ系)の援助であったと言われてきた。来日したドムフスキとピウスツキの日本側との交渉はドムフスキが対ロシア蜂起はポーランド問題にとって壊滅的であるので、 日本側にそのような試みには協力すべきでないと訴え、これと反対にピウスツキはポーランド人部隊の編制、武器や資金の提供、ロシアに関する情報の提供、ロシア軍の撹乱工作、ロシア国内の被制圧民族との共同闘争の実施などを申し出たという。しかし、日本側は資金援助や武器援助(一部)には応じたが、ポーランド部隊の編制はヨーロッパの国際政治に巻き込まれることを恐れ拒否した。

日本の援助がポーランドの独立にどれだけ寄与したかは不明であるが、 明石大佐はドモフスキと会うためにフィンランド独立派のコンニ・シリアクスとともにポーランドの古都クラクフを訪れて1週間滞在し、 ピウスツキなどが率いる過激派が活発なテロ活動を展開し、 政府官吏336名を殺害するなど多く流血の騒ぎが生じ、 また日露戦争から20年後の1918年11月にポーランドが念願の独立を達成しピウスツキが大統領となると、 日露戦争で活躍した51名の日本軍幹部にポーランドの最高の勲章であるピルチュティ・ミリタリー勲章を贈っている。
ポーランドからの暗号解読指導者の招致
ポーランド陸軍の暗号解読能力が高いことを知った陸軍は、 ポーランド参謀本部から暗号解読指導のためにヤン・コワレスキー少佐を招聘し、
大正12年春から参謀本部で3カ月にわたりソ連乱数式および同期転置式暗号の解読法や、
当時ヨーロッパで多用されていた各種暗号に関する講習会を開催した。 暗号講習参加者は次のとおりで、
この講習会の資料を後に参謀本部は『極秘 暗号解読の参考』としてまとめ、 師団司令部以上の関係諸機関に配布し、
この資料はその後長期にわたり日本軍暗号の基礎的資料となったという。
主任 陸軍参謀本部第部通信課長 岩越恒一大佐
幹事 同 中村正雄大尉
通訳(臨時派遣・ロシア語) 木村繁吉大尉
同 深堀游亀中尉
講習員陸軍参謀本部露班員 百武晴吉大尉
英班員 井上芳佐大尉
仏班員 三国直福大尉
独班員 武田 馨大尉
顧問 近衛師団歩兵第4連隊 三宅一夫中佐
聴講者 海軍軍令部通信課 中杉海軍中佐
また陸軍はその後3回にわたり暗号技術取得のために次の者を約1年の期間でポーランドに派遣し暗号技術の取得に努めた。
第1回 大正14年 百武晴吉中佐 工藤勝吉大尉
第2回 昭和4年 酒井直次少佐 大久保俊次郎少佐
第3回 昭和10年 桜井信太少佐 深井英一少佐
ポーランド陸軍の協力により日本陸軍の暗号解読技術は大幅に進歩し、 昭和3年には張学良政権の暗号「特殊機密碼台本」を解読して、
同政権が南京政府に帰順しようとしている動向を察知したのを始め、 満州事変では関東軍および支那派遣軍が中国軍の軍用暗号を解読し実作戦に応用した。
さらに昭和13年頃からは支那派遣軍や関東軍に特殊情報部および参謀本部に特殊情機関を設置するなど解読部門を強化し、
赤軍用5数字乱数式暗号、 国境警備隊用4数字乱数暗号および4数字コード鍵式転置暗号など解読したほか、
各種の軍用コードおよび乱数暗号を解読するに至った。 中国軍の暗号については満州事変以降、
国府外交用暗号「22電本」、 「26電本」および「武官用23電本」の解読に成功し、
国府政府および中国共産党発信の電報を常時解読していた。 このようにポーランドの暗号技術は日本陸軍の暗号解読能力を高めただけでなく、
海軍、 さらには外務省の電報の暗号化など日本の暗号技術向上にも大きな役割を演じたのであった。
第二次大戦中の日・ポーランド関係

日本が日独伊三国同盟に加入し、 第二次大戦が始まりドイツとソ連がポーランドを分割すると、 日本とポーランドとの関係は微妙なものとなった。 さらに、 日本が英米に宣戦を布告すると日本とポーランドとの関係は、 ポーランドの亡命政府がロンドンにあったこともあり、 イギリスの敵となった日本は自動的にポーランドの敵となってしまった。 しかし、日本陸軍とポーランド陸軍との協力関係は第二次大戦終了まで変わることなく続いた。 すなわち、第二次大戦開戦前に3人のポーランド軍人がソ連暗号の解読の為に関東軍に派遣されていたが、 ポーランドがドイツとソ連に分割されポーランド軍人の処遇が問題となったが、 ロンドンの亡命ポーランド政府はそのまま勤務させることを申し出ただけでなく、中立国スエーデンでは陸軍駐在武官小野寺信少将にイワノフとの偽名を持つ元ポーランド参謀本部員のミハール・リビコフスキ陸軍少佐、 さらにはロンドン亡命政府から派遣されていた駐スエーデン武官フェリックス・ブレキスウインスキー大佐などが協力した。 特にリビコフスキ少佐は杉原千畝副領事の斡旋でベルリンの満州国公使館発行の亡命白系ロシア人のパスポートでポーランドを脱出してきたこともあり、極めて献身的に協力した。 しかし、 問題はスエーデンが満州国を承認していないことであった。そこで小野寺武官はリビコフスキに「岩延平太」との日本名のパスポートを与え、武官室にリビコフスキの事務所を移すなどして保護していた。 しかし、 ドイツが元ポーランド軍人を日本大使館が雇用して情報を集めることに不快感を持ち、 リビコフスキの執拗な国外追放、 身柄引き渡し要求がなされたが小野寺武官は武官室の一員であるとして応じなかった。 しかし、 戦局が連合国に有利となるとスエーデンの圧力も加わり、 ついに1944年1月にはリビコフスキをロンドンのポーランド亡命政府側に引き渡すこととなった。 そして、 リビコフスキがロンドに去るとワルシャワやベルリン、 バルト諸国のリビコフスキの部下たちが集めた情報はロンドンを経由し、 ストックホルム駐在のポーランド陸軍武官ブルジェスクウィンスキー大佐から小野寺武官に届けられ、 ポーランドからの情報提供は日本の敗戦まで続けられたのであった。
参考資料
元陸軍大佐大久保俊次郎「対露暗号解読に関する創始並びに戦訓等に関する資料」(防衛研究所所蔵)
小野寺百合子『バルト海のほとりにて』(共同通信社、 1985年)
水木楊『動乱はわが掌中にあり』(新潮社、1991年)
坂東宏『ポーランド人と日露戦争』(青木書店、 1995年)