フィリピン独立戦争と日米比関係

はじめに
 フィリピンの独立戦争(1896−98年)に対する日本の対応、 特にアメリカに対する対応にはアメリカによるフィリピンの併合を容認し、 それに協力する日本政府と日本海軍の対応と、 フィリピン独立派を支援する志士と呼ばれるアジア主義者と日本陸軍(一部)の対応との二つの異なる対応があった。 志士や野党代議士、武器商人などを主体とし、陸軍が支援した日本のフィリピン独立戦争に対する支援は些細なものであり、それがフィリピンの独立戦争に及ぼした効果は皆無であったというのが通説である1。しかし、 フィリピン人、 特に独立派にとりアジアで最初に西欧化され近代国家となった日本の存在は大きく、 1896年(明治29年)のボニファシオ(Andres Bonifacio)の第一次決起には、日本海軍の軍艦金剛の寄港が影響し、第二次独立戦争では数人の志士の渡比と、途中で沈んでしまった武器(弾薬のみといわれている)が、フィリピン独立派の士気を高めたことは事実であり、日本の存在そのものがフィリピン人の独立運動に有形無形の影響を与えたことを見逃すことはできない。 しかし、これら些細な日本の独立派援助が、その後の日米関係や日比関係に与えた影響については余り研究がなされていない。そこで本論では1896年に生起した対スペイン独立戦争、 1898年の対米独立戦争に与えた日本の些細な各種の支援や好意が、その後の日米比関係に与えた影響について明らかにしたい。

2.第一次決起と軍艦金剛の寄港
(1)日本賛歌と日本への期待
 当時のアジアは日本とタイを除き、殆ど総ての国がヨーロッパ列強の支配下にあり植民地となっていた。 日本が長い鎖国を破って世界に門戸を開き、短期間に近代国家に成長すると、 この日本の近代化がアジア諸国の民衆にアジア人としての大きな自信を与えた。 そして、 フィリピン人の中には近代化された新興国日本がヨーロッパの勢力を駆逐し、 アジアの仲間として独立運動に援助を与えてくれるのではないかとの期待が生まれた。 この期待は日清戦争後に特に高まり、 フィリピンでは日本がスペイン、 次いでアメリカを撃退し独立を援助してくれるのではないかとの期待となり、 多くのフィリピン人が日本人に接触し、 多くのフィリピン人が亡命先をヨーロッパから日本に変更し、 東京や横浜にはフィリピン人町が生まれた。 そして、1888年にはフィリピン独立の父として最も尊敬されているホセ・リサール(Jose Rizal)が、 1895年8月にはラモス(Jose A.Ramos)が援助を求めて来日した。 そして、 これらフィリピン人の独立運動に対して、 志士とよばれた多くの日本人が、ヨーロッパの植民地化に対抗しアジア人のアジアを建設すべきであると同情し協力した。2 最初にフィリピンの独立に注目したのは菅沼貞風で、 菅沼は1888年に『新日本の図南の夢』を執筆し、 フランスが占領しているベトナム、 スペインが侵略しているフィリピン、 イギリスが占領中のマレーやビルマの独立を助けるために、 未だ植民地となっていない中国や朝鮮、 タイなどの東洋勢力を結集して「白人の跋扈」を拒否すべきであると主張した。そして、フィリピンはスペインの守備隊が極めて少ないことから、最初にフィリピンの独立を企てようと、調査のために1889年5月に日南(福本誠)を誘ってフィリピンに渡った。しかし、 菅沼は渡比3ヶ月後の7月には赤痢にかかりマニラで病死してしまった。3

 その後、 1893(明治26)年には森本藤吉が『大東合邦論』を著し、 「亜細亜黄人国之一大連邦」の形成を主張したが、 このアジア主義は日清戦争の勝利やアジアに高まった民族主義や独立運動、近代化しつつある日本に対する期待に触発されてさらに高まった。一方、この日清戦争の勝利が欧米諸国に日本への警戒心を高めた。スペインは日清戦争が終結した暁には、日本が必ず東洋の覇者となり、フィリピンを侵略すると警戒し、軍艦3隻をイギリスから購入しマニラに回航したが、4 オーストラリア海軍(イギリス指揮下の自治領海軍)も日本海軍を極東における第一の脅威として警戒し、日清戦争翌年には日本海軍の攻撃からシドニーを防衛するという想定で海軍演習を実施した。5 一方、アメリカ海軍もハワイをめぐる日米の対立から、スペインとの戦争中に日本軍にハワイや西岸を攻撃されることを警戒し、「スペインと日本に対する緊急計画(Contingency Plan for Operation in Case of War with Spain and Japan)」と呼ばれる最初の対日戦争計画を立案した。この計画によれば、当時アメリカは艦隊を大西洋に配備していたため、艦隊が太平洋に回航される前にハワイ群島やアリューシャン列島、状況によってはピュージェットサウンド(シアトル南方)までもが占領されると見積もらざるを得ぬほど、太平洋に於けるアメリカの海軍力は弱体であった。6

(2)金剛のフィリピン寄港
 フィリピンの独立派の秘密組織カティプーナン(Katipunan:タガログ語で人民の子らの最も気高く、最も尊敬される結社の略)は、 1892(明治15)年7月7日にマニラ市の貧民街であるトンド地域で生まれたが、 この組織もフィリピン最初の独立運動もボニファシオによって率いられていた。 最初のスペインに対するフィリピン独立決起は1896年8月23日に行われたが、 それは練習艦金剛が兵学校卒業生の遠洋航海でマニラに寄港したのに刺激されて生起した可能性がかなり高い。 すなわち、 最初の決起1年前の1895年3月1日、実現はしなかったがカティプーナンの幹部会議において、フィリピン国民とカティープナンの名において、日本に独立闘争に必要な武器の供給を依頼するために、ジャシント(Emilio Jachinto)、ホセ・ディゾン(Jose Dizon)、ホセ・バサ(Jose Basa)とクリストモ(Mariano Cristomo)の4人を訪日させることが決議された。そして、決起1カ月前の1896年5月3日(11日まで停泊)に練習艦の金剛がマニラに入港すると、 カティプーナンを代表して、エミリオ・ハシント(Emilio Facinto)が金剛を訪問し、歓迎の意を表するとともに艦長にカティプーナン幹部との会談を申し出た。 この会談はフィリピンで著名な日本人実業家で、 ボニファシオとも親しい田川盛太郎によりアレンジされ7、 マニラの日本町で行われたが、日本側の資料によると、艦長は「土人ノ有力者5人ニ面会ヲ許シタルニ、後日、土人達ハ一書ヲ認メ艦長ニ呈セントセリ。書中現政府ノ悪政ヲ憤リ帝国ノ善政ヲ賞賛シテ敬慕ノ情ヲ述へ、他年其保護ノ下ニ立タンコトヲ渇望スルノ意を表シタリ。尤モ艦長ハ之ヲ受領セサリシモ其訳文ヲ持チ帰ラレタトイフ8」というものであった。

 しかし、フィリピン側の資料には、この会談で小銃10万丁、 大小各種口径の砲150門と、これらに必要な弾薬を1億5000万ペソで購入する契約書が、 7月22日付でテアンダロ(Tiandaloは独立運動の指導者ラモスの偽名)により署名された。 そして、 決起したならば日本から武器・弾薬や軍隊を送り、独立派と共同してスペインのフィリピン支配を打破することが協定され、天皇に報告することを艦長は約束したと多くに資料には記されている。9 金剛の寄港3カ月後に第一次決起が発生したが、 日本政府は何の援助もなかったし、海軍も決起派を賊徒と呼称し、マニラに派遣された吉野艦長には「反徒ヲシテ其ノ艦ニ避難セシムヘカラス」との訓令が発せられていた。10 しかし、この金剛の寄港が背後にあったのであろうか、 あるいは在日フィリピン人のホセ・ラモス(Jose Ramos)やスペイン人のドロテオ・コルテスなどの武器購入を巡る動きが察知されたためであろうか11、外国の新聞には日本から商船2隻が入港し3000丁の銃が陸揚げされたとの報道、武器や弾薬が日本から到着したなどとの無数の噂が流布し、警戒したスペイン当局からマニラの日本人貿易商が厳しい家宅調査や身柄勾留などを受けていた12。そして、これらの噂を信じたのであろうか、1896年9月11日にはカティプーナンの本部から、各支部に次のメッセージが発せられていた。13

  アギナルド司令官からの緊急信によれば、 我々を支援するために日本の軍
  艦が今日入港したとの確実な連絡が入った。 なお、 その軍艦は既にコレヒ
  ドール島の反対側に投錨している。

 その後、革命は8カ月以内にマニラ近郊の8つの州に広がった。 しかし、 スペインに対する最初の戦いに成功した後は、 武器弾薬や練度に欠ける革命軍は敗北し、このためキャプチナンの創設者のボニファシオは影響力を失い、権力を握ったアギナルドにより反革命罪で処刑されてしまった。そのうえ、 1897年12月14日にはアギナルド以下13名が同志を裏切って、香港に亡命することでスペインとの講和に応じたため、第一次独立運動は消滅した。

第二次決起と日本の対応
(1)日本政府の対応
 1898(明治31)年4月243日に米西戦争が勃発すると、5月9日に香港の独立派はアメリカ軍がフィリピンを占領する前に、仮政府を樹立し独立宣言を発し、その後は日本の保護を受けるか、日本に合併を求めるかを決することとし、直ちに日本に密使を派遣することが議論された。しかし、情勢を見てからということから中止されたが、 さらにこの決議は5月13日の会議で、領土的野心がないアメリカに協力して独立を達成すべきであるとのアギナルド派の主張により覆されてしまった14。そして、 アギナルドはアメリカ軍艦マック・クロシュ(Hugh MacCulloch)に便乗し、5月17日に帰国し6月12日には独立を宣言し革命政府を樹立した。 しかし、アギナルドはアメリカを誤算しアメリカに裏切られた。 アメリカ軍が8月14日にマニラを占領したが、フィリピン独立軍はマニラ市街へ入ることを拒否され、 スペインとの降伏文書はスペイン陸軍総司令官ジョウデンス(Don Fermin Jaudenes)と、アメリカ軍指揮官メリット(Wesley Merritt)少将との間で調印され、さらに1988年12月10日に調印されたパリ平和協定で、フィリピンは20億ドルでスペインからアメリカに売却されてしまった。 裏切られたアギナルドは1899年1月5日に国民に決起を呼びかけ、2月4日にはアメリカに対して銃を取った。 そして、新しく樹立された革命政府は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア政府などから認証を得ようと、日本にはポンセ(Maliano Ponce)、 アルジェンドリロ(Jose Alejamdrino)、 リチャウコ(Faustino Lichauco)を派遣した。しかし、 当時の日本は日清戦争には勝ったが、 日本に対して友好的態度を示している国はアメリカとイギリスしかなく、 日本政府としてはフィリピンがドイツやフランスなどの三国干渉を行ったヨーロッパ列強に支配されるより、日本に好意的なアメリカが支配することを望んでいた。このような国際情勢から日本政府の独立派に対する対応は冷たく、援助を拒否しただけでなく、日本政府はこれらの代表を外交官として認定することもなかった15。

 日本海軍は米西戦争に関しては極めて厳正な中立を維持したが、独立派との戦争に対してはアメリカに好意を示し、フィリピンに向かうアメリカ陸軍の軍馬やロバを休養や訓練のために、神戸や長崎で上陸することを認め、さらに、輸送船モルガン・シテイ(Morgan City)が瀬戸内海で座礁すると、海軍は最高速の巡洋艦吉野を直ちに現場には検視、救助に関して必要なあらゆる援助を提供することをアメリカ海軍に伝えていた16。そして、7月13日にはアメリカがフィリピンを領有することを容認する旨を通知したが、9月8日にはフィリピン人が「外国ノ庇護ナク純粋土民組織ノ政府ヲ設ケタレハ」、その政府は「必ス協同一致ヲ欠キ制御ノ手段ナキハ勿論、 自衛ノ道サエ立チ難ク」、国内は混乱し、その結果「蠶食心深キ他外国ノ好餌トナルヤ必セリ」。 日本政府としては「合衆国ノ主権ヲ延テ以テ此等領土ノ上ニ布及セシムル」ことが、本問題ヲ解決する「最易ノコトニシテ」、日本政府として「全然同意ヲ表スル(Entirely acceptable)」ものであると通知した。 17

 一方、日本政府は「軍事視察及在外帝国臣民ノ保護」のため巡洋艦松島、 浪速、 秋津島を交互にマニラに派出し、185月12日には秋津島がマニラに到着、その後、常に1隻かマニラに在泊していた。5月12日には 8月10日には陸軍から明石元次郎少佐、海軍からは吉田増次郎大尉などがマニラに到着した。そして、参謀本部から派遣された時澤右一大尉からはドイツ領事が、「吾ガ眼ノ黒キ間ハ、米ハ勿論何レノ邦国モ比律賓ニ於テ意ヲ儘ニスルコト能ハス」と「放言セリ」との報告が、軍令部から派遣された吉田大尉からはドイツとスペインの間に「何事カ存在」し、「比律賓群島ノ一部」が「独逸の版図に帰すなからん」とドイツを強く警戒していた。18また、秋津島艦長の斎藤実(のちの大将、 総理大臣)大佐からも、ドイツとフランスがスペインに同情的であり、 特にドイツはフィリピンに対する野心が強く、 スペインと秘密にフィリピンの譲渡についての話し合いをしており「油断ならず」と報告していた19。そして、マニラに派遣された秋津島などの日本の艦艇は、中立を維持しながらもアメリカ海軍には好意的に対処した。秋津島艦長の斉藤実大佐はドイツ海軍の指揮官フォン・フィデリシュ(von Fiederichs)から、アメリカのマニラ湾封鎖は厳しすぎ、中立条約に違反しているので抗議しようとの申し出を拒否しただけでなく20、アメリカの作戦を妨害するドイツ艦艇の動きに先手をとって、アメリカ艦隊の作戦上都合の良い錨地に移動するなど、デューイ(George Dewey)司令官も「われわれが封鎖作戦を行っていたときに、日本は1隻から2隻の艦艇を派遣していたが、 日本政府のアメリカに対する好意は、派遣された日本海軍の艦艇の対応に良く現れていた」、と日本海軍の好意的な態度に感謝していた。21

(2)民間志士などの援助
 日本陸軍はフィリピン独立戦争に強い関心を持ち、戦争が勃発すると陸軍参謀本部は直ちに時澤右一大尉をアメリカの輸送船に便乗させ、軍事情勢視察のためにマニラに派遣した。これに加えて、台湾軍からも楠瀬良彦少佐、次いで坂本志魯雄大(のちに国会議員)が派遣された。特に台湾軍から派遣された坂本大尉は、貿易商及び新聞記者として長期間マニラに居住するよう指示され、18971年3月に台湾を出発した。フィリピンに渡った坂本大尉は、カティプ-ナンの中枢に接近し、幹部会議にも出席するなど深くかかわるようになった。アメリカの裏切りが明確になった6月12日にアギナルドは独立宣言を発し、対米戦争の激化とともに独立派の日本に対する期待が高まり、この情勢の変化を受け現地からの報告も、独立派に対する同情が高まって行った。

 米西戦争が終戦を迎えた2日後の8月15日に坂本大尉は緊急信で台湾軍司令部に、日本が放置するならばフリイリピン独立組織は、アメリカの強大な軍事力の前に崩壊する危険がある。もし、台湾軍から1個大隊が派遣されるならば、アギナルドがマニラを保持し、フィリピンの自由と独立が確保できるであろうと報告した22。また、陸軍参謀本部から派遣された時澤大尉も、フィリピン人の日本に対する「敬慕ニ反シ、我ガ国ノ態度」が曖昧なため、知識人の一部には「失望観念」が生じ、「日本ハ冷淡ナリトノ思想ヲ懐カシメタリ」。もし、このよう風潮が「一般偶直ナル土人ニ伝搬セバ、他日我ガ南進ノ妨害タル事決シテ少ナカラザルベシ」と、何らかの援助をすべきであると報告した23。一方、マニラ領事の三増久米吉も、9月1日にフイリピン独立派代表のサンディコ(Teodoro Sandliko)との会話を引用し、「我々は日本の支援保護を受けて独立を熱望している。アジアの大国である日本が、われわれの独立運動を援助しないのは悲しくまた遺憾である。日本が直面している困難な状況は理解しているが、アジアの強国ある日本は力もあり、我々は援助を期待している。そして、三須領事は、もしこの申し出を無視するならば、フィリピン人の日本に対する賞賛を失うので、訪日したフィリピン独立派使節団を暖かく迎えるよう進言した24。さらに三須領事は翌1899年1月には、「米兵等ノ跋扈跳梁」甚だしく、「土人ヲ軽視スルや彌益甚シク、或ハ酒食ノ代価ヲ払ハス或ハ多クノ現金ヲ借リテ還サザル者アリ」。 このため「米国占領軍ノ配下ニ一時安堵シタル人心モ、今ヤ却テ西国ノ昔時ヲ追慕スル程」であり、 独立軍の士気も高くオチス(Elwell S.Otis)総督が発したフィリピン占領宣言は、「徒ニ島民ノ敵愾心ヲ挑発シタル迄」であり、これはハワイ併合の「倖夢未タ覚メサルノ致ストコロナリト或外国人ハ評スル」状態であると報告した25。

 しかし、フィリピン人の期待とは裏腹に、日本は日清戦争ではドイツ、フランス、ロシアなどから三国干渉を受け、中国から割譲させた遼東半島を返却させられるなど、日本はアメリカやイギリス寄りの政策を採るしかなかった。このため、フィリピン独立派への支援は必然的に、非政府レベルの志士と呼ばれるアジア主義者、野党議員、武器商人や孫文などの中国革命グループへと移行して行った。香港で宮崎滔天から日本に行くことを勧められたアギナルド(Emilio Aginaldo)は、1898年7月7日にポンセ(Mariano Ponce)を対日工作のために日本に送った。日本におけるポンセの活躍、特に武器購入などについては多くの研究があるが、これらの研究や警視総監から青木周三外務大臣への報告および波多野論文などから要約すると次の通りであった。26 ポンセは来日後に多くの志士やアジア主義者に紹介されたが、特に宮崎寅蔵や平山周、後に中国の初代大統領となった孫文を紹介されたことは、財政的支援を得る大きな力となった。ポンセは日本で宮崎達から多くの志士や政治家などを紹介されたが、 特に平山周や犬養木堂、孫文などに紹介されたことは、のちに日本の支援を得る大きな力となった。 平山がポンセを犬養毅に紹介すると、 犬養は「米国のやり方は酷い。人道なぞ言われた義理じゃない。一泡吹かすのも好かろう27」と深く同情し、ポンセを憲政本党の中村弥六代議士に紹介した。 中村代議士は極めて積極的で、 陸軍大臣中村雄次郎少将や参謀総長川上操六大将および参謀本部の福島安正大佐や神尾光臣大佐などに接近したが、陸軍参謀長の川上繰六は「比律賓独立と云つても却々目的は遂げ難いと思う。我が国としても今あの方面に手を着けることは出来ぬが、国家の生命というものは永遠である。五十年,百年の後のことを考えねばならぬから、ヒリツピンの土人の歓心を失わないやうにして置く必要がある28」と語るなど積極的であった。

 そして、10月には日清戦争で捕獲したモーゼル銃とスナイドル銃および弾薬500万発を払い下げることを決めた。しかし、 12月下旬に在日アメリカ公使バック(A.E.Buck)から武器の密輸について問い合わせを受けたため、武器(弾薬のみとも言われる)を大倉組経由でドイツの貿易商ワインベルガー(C.Weinberger)に売り、そこからフィリピンの革命派に売りさばくこととされ、その手数料としてき5000円がワインベルグに支払われた。中村はこれらの弾薬をフィリヒンに運ぶために、三井物産から2000トンの貨物船布引丸を3万8000円で購入し、1899(明治32年7月19日に長崎を出港した。布引丸には34名の船員と元海軍中尉水町袈裟吉、元海軍兵曹の中森三郎と増田忍夫、新潟新聞主筆林正文、フィリピン人通訳兼パイロットのパロギン(Manuel Paroging)が乗り組み、フィリピン北部のカシグラン湾に向かう予定で長崎を出帆した。 しかし、7月21日に上海沖の船山列島付近で荒天に遭遇し沈没してしまった。 救命ボートに乗っていた乗客と下級船員6名は、キアング(Kiukiang)とメネロ(Menelaus)号に救助されたが、アギナルド軍に参加するために乗船していた義勇兵要員は全てが死亡してしまった。一方、翌99年5月20日には駐日アメリカ公使バックが外務大臣青木周造を訪問し、香港領事の電報を示し日本から独立派に武器8万ドルが送られたと抗議したが、11月には海軍武官が調査した詳細な資料を示して布引丸の1件を抗議した。この引き続く抗議に青木外相は、翌1900年2月20日に次のように回答した29。布引丸は長崎港までは沿岸通航船として取扱われ、7月18日の長崎港の際に外航船に変更れたものであり、弾薬は東京の火薬商大倉米吉から横浜のワインベルガー商会に売却したものを門司で搭載したものである。その際は台湾航路名義であり、長崎で外航航路と改められたが、渡航地が上海であったため、「別ニ怪ムヘキ形跡ヲ認メサリシ次第ニ有候。該船ノ果シテ比律賓叛徒ニ弾薬供給ノ目的ヲ有セシヤ否ヤハ、今日ニ於テモ断定ノ途無之趣ニ候。尤モ、帝国政府ハ尚念ノ為、各地方庁及税関ニ対シ今後ニ注意ヲ加へ、厳重警戒スベシトノ旨内訓ニ及置候」。

 このような状況のため、第二次支援の試みも行われたが、アメリカの監視が厳しく調達された武器は台湾に陸揚げされ、孫文の率いる中国の革命派に渡されたという。この他の援助としては中村などの呼びかけに応じ、現役の陸軍大尉で元台湾軍司令部幕僚の原禎大尉(参加するため予備役に編入)、 予備役陸軍砲兵少尉稲富朝次郎、 下士官中森三郎、 西内真鉄、 宮井啓三と政治問題を代表する志士の平山周が香港経由で1899年7月末にマニラに着いた。 これらグループは多くの困難に遭遇しながらもバターン半島にあるアギナルドの司令部に着いたが、 下士官兵の3名はタガログ語ができないことから、戦闘への参加が認められなかったため帰国することとなった。 しかし、 原大尉を護衛していた革命軍の将校がアメリカ軍に逮捕され、犬養から贈られた日本刀や犬養の「大統領閣下が高尚に維持せらるる戦局及び勇敢に遂行せらるる所の政略は、苟も東洋の安寧を希望する者、誰か之を賞賛せんや。此の理由により余は誠実に大統領閣下の成功を祈る30」とのメッセージがアメリカ軍に接収されたため、 三増久米吉領事がオーティス司令官から抗議を受けるなどの事件もあり、アメリカ軍の警戒が厳しく無事に日本まで帰国できたのは平山と西内だけであった。

3 独立戦争以後に生じた日米比関係
(1)フィリピン独立と日米関係
 ジェームス・フィールド(James A.Field,Jr.)が「アメリカの帝国主義はデューイの勝利の産物といえるかも知れない31 」というように、デューイのマニラ湾の勝利がアメリカを帝国主義者に変質させてしまった。デューイの要求により7月末までには1万1000人のアメリカ軍が派遣され、南マリアナ群島のグアム島がマニラへ向かうチャールストン(Charlestone)によって占領された。そして、1897年6月にはハワイが、1898年12月にはフィリピンが併合された。このように、アメリカが突然に帝国主義に変わったのは、米西戦争勃発10年前に発行された海軍戦略家マハン(Alfred Thayer Mahan)の『海上権力史論』と、それに続く一連の論説がアメリカを大きく変えていたからであった。特に『海上権力史論』が発行された4ケ月後の『アトランチック・マンスリー』誌上に、「アメリカが必要としているのは単なる巡洋艦の寄せ集めではない。いかなる国の海軍力にも対抗できる、強力な戦艦群からなるバランスのとれた巨大な海軍である。海軍予算を制限し住宅建設などに浪費するのは、長期的には経済的でなく、“けち”な愚かな考えである32 」との書評を送った海軍次官セオドール・ローズヴエルト(Theodore Roosevelt)は、積極的なデユーイをアジア艦隊司令官に任命し、戦争となったならば直ちにマニラ湾のスペイン艦隊を攻撃することを命じていた33。

 フィリピンの併合について、 アメリカ国内には独立宣言や憲法の精神に反する。 フィリピンを併合すれば、アジアでヨーロッパ列強との紛争に巻き込まれ、大西洋と太平洋に2つの艦隊が必要となるなどとの反対論もあった。 しかし、 未開のフィリピン人を文明化するのは、アメリカの神から与えられた「明白な義務(Manifest Desteny)」である。 フィリピンは極東へ発展する前進基地として必要であるなどとの併合論が勝ち、 1898年12月に併合されてしまった。そして、フィリピン併合がマハンが『海上権力史論』で、 シーパワーを構成する「第三の重要な環」と規定した植民地と、さらに巨大な中国市場への夢をアメリカに抱かせ、1889年には国務長官ジョン・ヘイ(John Hay)から、中国市場への門戸開放・機会均等宣言が発せられた。アメリカ国内にはパナマ運河やハワイ、 フィリピンを、アジアの偉大なる市場への“Step Stone"とし必要である。フィリピンは単に海軍基地として必要なだけでなく、西太平洋地域に対するアメリカの「重要な政治的・経済的利益」を確保する“Key Stone”としても必要であるとされた。そして、フィリピン併合がアメリカ海軍にフィリピンを守るという新しい義務を課し、 この新しいコミットメントが海軍力増強に根拠を与え、海軍力の増強が加速された。マニラ湾の英雄デューイ提督が海軍委員会(Naval Board)の議長として、 サンチャゴ封鎖作戦の英雄ホブソン(Richimond Hobson)大佐が上院議員として、 人種差別と日本の脅威を扇動し海軍力増強の必要性を訴えた。政治家では海軍力を増強しなければ、モンロー主義宣言とアメリカの名誉を放棄することになる。 平和を欲するならば条約でなく、 第一級の戦艦からなる第一級の艦隊が必要である。 武力なき外交は召使に過ぎぬと演説し物議を醸したセオドール・ロズベルト)大統領が34、また、1919年から1924年まで上院外交委員長を務め、海軍のためなら何でもしよう。 海軍長官が欲する増強は何でも認めようという熱狂的海軍主義者のロッジ(Henry Cabot Logde)上院議員が35、中国への門戸開放宣言を2回も宣言した国務長官のジョン・ヘイ(John Hay)が、 海軍贔屓のモルガン(John T.Morgan)上院議員や、 マックドゥー(William MacAdoo)下院議員が、 言論界では『レビュー・オブ・レビューズ』誌編集長ショー(Albert Show)、 ニューヨーク・サン紙のダナ(Charles A. Dana)などの海軍主義者が、ハワイやフィリピンの重要性と海軍力の必要性を訴えた。37
 
 一方、マニラ・アメリカンと呼ばれる米西戦争や統治初期に来比し、退役・退任後にマニラに残った軍人、官僚や教師、フィリピンで事業を始めた実業家などが植民地としてフィリピンを維持のため、独立を与えれば満州のように日本の植民地にされてしまうと、根も葉もない過大な日本脅威論を展開した。これら日本脅威論の一例を示せば、1900年12月28日にはフィリピン派遣軍司令官のマッカサー(Arthur MacArthur)から、アギナルドに次ぐ革命軍ナンバーツウのトリアス(Mario Trias)財務担当長官と日本領事が会合し、 領事はトリアスに訪日を勧め、 日本はフィリピンとの自由貿易を希望し、 フィリピンに石炭貯蔵所を建設し、鉄道を敷設したいとの申し出があつたと報告し、さらに日本の脅威は将来の問題でなく、 現実の問題であると次のような所見をこの報告に添付していた38。 「ルソン島の最北端のアパリ港に行けば、 晴れた日に望遠鏡を使えば60から70マイル離れた台湾の最南端が見える。 日本が決意さえすれば、一昼夜で現在フィリピンに駐屯しているアメリカ軍の数倍の兵力を上陸させることができる。 アパリからリンガへは70マイル、さらに90マイルでルソン島中心地のボイボンモンクに至り、そこからマニラへは70マイルである。 アパリは全く無防備な港であり、 アパリは日本軍が一昼夜で上陸できる距離にあり、 日本がマニラを占領しようと思えば2週間で可能である」。

 さらに、日露戦争の勝利が日米関係を大きく変え、1907年にサンフランシスコ市学務局が、日本人学童の隔離教育法案を決し日米間の緊張が高まると、 それまでの対日過大脅威論の影響であろうか、海兵隊は日本軍のフィリピン進攻に備え、6インチ砲20門、 4・7インチ砲4門、 4インチ砲4門、 6ポンド砲16門をオロガッポ基地に備え、 10週間にわたり警戒態勢を敷いた。 38 一方、フィリピン総督のスミス(James F.Smith)からは、次のような電報がワシントンに発せられた。これほど、フィリピン所在のアメリカ軍やアメリカ人は日本軍の進攻に怯えていたが、その裏にはフィリピン人の日本への期待から、日本が依然としてフィリピン独立派に援助を与え、日本が独立派をあやってアメリカ軍に対するゲリラ戦を展開していると猜疑していたことも影響していた。

  「対日関係にその後どのような変化が生じたか。 今のところ香港銀行には話
   を勧めていないが、 もし大きな変動があればフィリピンの銀行3行と株式
   信託会社の株券や金塊を香港経由でロンドに送金したいが、実施すること
   に同意するか39」。

 このようなアメリカの対日脅威論や猜疑心を受けた日本は、 1905年7月27日に総理大臣桂太郎と、元フィリピン総督で国務長官のタフト(William H.Taft)との間で、 1908年にはルート(Elihu Root)国務長官と駐米大使高平小五郎の間で、日本がフィリピンの現状維持を認める交換公文を交換した。 しかし、日本に対する猜疑心や警戒心は日本の大国化やフィリピン独立論の高揚とともに高まり、1911年には取り調べをした日本人は医者と名乗っているが実は土木技師であり、 どこに要塞を建設するかを計画した地図や計画書を保持していたと報告するなど40、作為的に造られた情報や不確実な風説を根拠に、日本に対する猜疑心を高め、日本の進攻を恐れたのであった。

 1924年のワシントン条約第19条で、グアムやフィリピンの軍備現状維持が協定され、さらに日本海軍の軍備が増給され、フィリピンやグアムが緒戦で日本軍に占領されると見積もらざるを得ぬ情勢となり、さらに1933年にフィリピンの独立を認めるヘア・ホウズ・カッティング(Hare-Hawes-Cutting Act)が議会を通過すると、アメリカ国内にはフィリピンを守るべきか、 捨てるべきかの議論が起こった。そして、1935年には陸軍戦争計画部長から守ることのできない基地は、戦略上不可欠なものでなくむしろ災害を招く、日本海軍の近代化や勢力の増強に伴い、日本を対象に軍備を増強するのならば、アメリカ海軍が軍事予算の75パーセントを使用し、 アメリカの富を消耗し、 そのうえ本国の防備には余り寄与しない。 日本を対象としたオレンジ計画(Orange Plan)は戦略的には愚かな「狂気の計画」である。 防衛線をアラスカーハワイーパナマの線に後退すべきであると主張された41。 しかし、 海軍は戦争計画課での審議であれ、 将官会議あるいは陸海軍統合会議であれ、 議会であれ、常にフィリピンだけを切り放して考えるべきではない。フィリピンを保持する決意を明示するだけで、日本は兵力の一部をフィリピン作戦に割かなければならないので、アメリカ本土の防衛にも価値がある。 またフィリピンは極東の自由主義の窓であり、 アメリカの極東の権益やアメリカ市民を守る基地であり、フィリピン放棄は極東からの撤退に連なるなどと、強くフィリピンを防衛する必要性が主張された42。

 しかし、ヨーロッパでヒトラーの侵略が始まり、さらに日本の軍事力が増強されると、フィリピンの防衛が困難となりアメリカ海軍は1935年後半にはフィリピン防衛を「対日戦争計画」上は断念した。しかし、マニラ・アメリカンの子孫で、ケソン大統領の軍事顧問となったマッカーサー大将や、かってフィリピン保護構想を主張したスティムソン(Henry L.Stimson)国務長官などから強硬な反対があり、フィリピン軍創設に対するマッカーサーの楽観や空の要塞と呼ばれた大型爆撃機B-17への過大期待などから軍の増強でフィリピンを防衛することとし、1941年12月4日にはB-17爆撃機の第一陣として18機が、ハワイ、ニューカレドニア、ダウィン経由でクラークフィルド飛行場に展開され、12月8日を迎えたのであった。

(2)フィリピン独立問題と日比関係
 三国干渉を受け孤立した日本が期待出来るのはイギリスであり、新興国アメリカであった。このため日本政府や官憲のフィリピン独立派代表や、在日フィリピン人に対する対応は冷たいものであった。多くの新聞もフィリピン人には自治能力がなく、フィリピンの独立は国内的に混乱を招き西欧列強、特にドイツに領有されることを恐れ、アメリカが領有することがアジアの安定に連なると論じていた。このような雰囲気のため、外人記者を東京倶楽部に集め、独立派のポンセに記者会見をさせた志賀重メは東京倶楽部を除名された。また、革命政府から派遣された代表団も、日本政府から外交団として認証されなかった。これがフィリピンの独立運動や独立戦争に対する日本の関与の実態であった。

 しかし、近代国家となった日本へのフィリピン人の期待は大きく、時澤大尉はフィリピン人の日本への期待は、日清戦争の「戦勝ハ無論」ではあるが、「反徒ガ旗挙グルニ際シ為シタ」噂なのか、あるいはホセ・リサールが日本主義を唱えたからなのか、フィリピン人のアジア主義的観念からなのか、「寓民ノ中ニハ」スペインと戦争になった時には、必ず日本が援軍を派遣して助けてくれると信じていると報告していた43。また、内乱中に島内を視察した秋津島の士官は。「日本ニ対シテ最モ好意ヲ示シ、小官一行ニ対シテモ頗ル慇懃」であり、これは「同人種ト信シ、且ツ日本ハ戦勝国ナルニ感激セシコトニヨルナラン」と報告しており44、フィリピン独立決起は日本の近代化、特に日清戦争の勝利がフィリピン人の日本に対する期待が生まれたのであろう。さらに、フィリピン人を勇気付けたのが日露戦争に於ける日本の勝利であった。日本の勝利が多くの有色人種に、白色人種の支配から脱する自信と独立への希望を与えたが、特に感動を与えたのが金剛と結びついた日本海軍の日本海海戦の完勝であった。当時、デレチョ法律大学の学生で最高裁判所判事になったハリレノ(Antonio Harilleno)、 国会議員となったバメンタ(Isidro Vamenta)は感動してマニラの日本領事舘に祝電を打った45。 また、 のちに議員となったコーポラウ(Enrique Corpus)は、「われわれはアジアの時代が来たと感じた。 アジア人がヨーロッパに対して立ち上がる時が来た」と感じたと回想している46。

 このように、フィリピンの日本への期待は、日清戦争、次いで日露戦争の勝利で高まったものであったが、さらに金剛のマニラ寄港時に生まれた架空の援助契約、独立戦争に参加した僅か6名の私設義勇兵や海没してしまった布引丸の武器・弾薬などが誇張されて、さらに高まり、この独立戦争時に生まれた対日援助への期待がフィリピン人の独立願望や土着宗教ともからみ、フィリピン人の心に日本が救世主ように期待されるに至った。このため、「アメリカとフィリピンとの戦争の時には日本が援助してくれる。今も日本の軍艦が頻繁にフィリピン沖に現れている」。「日本に亡命している革命軍の司令官リカルテ(Artemio Ricarte)将軍が日本軍の援助を受けて帰国し、独立闘争の戦闘に立つ」などの噂がまことしやかに流れ続けた。そして、この架空の対日期待が狂信性を持った宗教的なコロルム(Colorum)運動に連動していった。この運動は農村や都市の貧民層を中心に起こり、各地で叛乱を生起させたが、この運動の指導者のペドロ・カボーラ(Pedro Kabola)は、革命期の神格化された伝説的英雄フェリペ・サルバドール(Felipe Salvador)や、ホセ・リサールの霊が立ち上がれと告げたと民衆に説き、決起すれば日本の皇帝が叛乱を支援し、軍艦を派遣して大地主やアメリカ人をフィリピンから追放してくれると決起を促し、1925年3月に決起した。しかし、この決起はアメリカがフィリピンの治安を維持するために創設した国家警察隊により弾圧されてしまった。

 この運動を引き継いだのがベニグノ・ラモス(Benigno Ramos)で、ラモスはケソン大統領の顧問であったがケソンの親米的態度から袂を分かち、「サクダル(タガログ語の真理あるいは抗議を意味する言葉)」という週刊誌を発行し、発行1年余りで発行部数を1万8000部まで伸ばし、1933年1月には「サダダル党(Sandalista)」を結成し、1934年の選挙では下院に3名を送るまでに勢力を伸ばした。しかし、1935年5月に10年後に独立を認めるというタイディングス・マクダフィ(Tydings-McDuffie)条約をアメリカと結び、その成否を決する憲法を承認する国民投票が行われる前に、サクダル党の急進派が即時独立を求めて、マニラ周辺のラグナ・カビテ、リサール、ブラカン、パンパンガ、ヌエバなどで決起し2300名の参加者中、国家警察軍により59名が殺され、36名が負傷を負い、指導者が逮捕され、政府の弾圧で党勢は勢いを失ってしまった。ラモスは決起当時日本にいたが、それでもラモスが日本から帰国する1938年まで3年間、サクダル党は存続していた。ラモスは帰国すると党名を「ガナップ党」と改め活動も穏健化した。しかし、1939年5月に公金横領罪で突然逮捕され10年の刑を科せられてしまった。これはラモスが日本との同盟の必要性を強く訴えたからと言われている。ラモスに対して日本は明治期のように志士の内田良平や小池四郎らのアジア主義者が支援し、「自由フィリピン(Free Filippinos)」と題するパンフレットなどを作成する資金を与え、数千部をフィリピンに送ったことは事実であるが、それがサクダルの決起に与えた影響は不明である47。

 日本に生まれたアジア主義は主として大陸発展の先兵として、中国や蒙古、中国の延長としてのベトナムやタイであり、日本で接するフィリピン人がホセ・リサールのようにエリート階級で欧米留学者が多かったためか、フィリピン人はアジア人でありながら西欧的であると、フィリピンに対する日本の関心は移民や通商の拡大でしかなかった。このため、1913年4月のカリフォルニア州議会における排日移民法案の制定を契機として、強まったアジア主義でもフィリピンへの関心は低くかったし、フィリピン人の日本に対する関心も低かった。フィリピン人が日本のアジア主義に同調し始めたのは、1924年の排日移民法案を受けて1926年に結成された全アジア協会やアジア民族大同盟からであった。そして、1927年にはフィリピン大学教授カロウ(Maximo Kalaw)がフィリピンの独立には、日本のこの大アジア協会の活動を強化すべきであるとの意見を発表し、上院議員レクト(Claro M.Recto)が「アジアのためのアジア」というスローガンは、「日本のためのアジア」に過ぎないと反論するなど、この時期に至ってフィリピンでも日本のアジア主義が関心を呼び大きく報道されるようになった。そして、アジア連盟にはピオ・デュラン(Poi Duran)、ホセ・ラウエル(Jose Laurel)、モデスト・ファロイアン(Modesto Faroian)などが参加し、1934年7月にはフィリピン支部も創設された48。  

 アメリカ植民地統治当局はフィリピン人の日本に対する期待を打破しようと、教師には日本を信頼しないよう教育することを要求し、 反日的記事を書く新聞を支援し、 新聞は日本のとなった朝鮮や台湾の苛酷な住民の生活や日本の高圧的な植民地政策を繰り返し繰り返し報じた49。 しかし、 独立を願望するフィリピン人にとり日本人の愛国心と国民の一体感は印象強く、ロムロ(Carls P.Romulo)は「私は日本人を称賛する。 私は彼等の愛国心を称賛する。 また日本の近代化を高く評価する。 日本の伝統に敬意を表する。日本人の技術と技術に対する情念に敬意を表する」と日本を称賛し、日本人の愛国心と高潔さなどを学ぶべきである50」と繰り返し繰り返し主張した。

 また、独立戦争に参加し義勇兵の中森三郎軍曹を最も尊敬していると、来日の度に話していた初代大統領となったケソン(Manuel L.Quezon)も51、日本脅威論は独立反対論者の陰謀であると公言し、ミネソタ州出身のアレキサンダー(John Alexander)下院議員から、ダバオを「第2の満州国」にしようとしている日本に対するケソン大統領の対応はあまりにも親日的であると、「ケソン大統領治下における日比関係の実地調査」要求決議が提出された。しかし、ケソン大統領はダバオの日本人はフィリピンに何ら被害を与えていないばかりか、フィリピンの発展に不可欠であり、また日本人には学ぶべきところが多いと反論するなど、 アメリカに疑惑を与えるほど日本を賛美していた。さらに、ケソン大統領が独立問題に関して渡米する途次、乗船したカナダ号(Empress of Canada)が神戸から横浜に回航される短い時間を利用して汽車で東京に向かい、昭和天皇と会見し有田外相などに対米交渉の内容を知らせるなど、極めて日本を意識し行動をとった。このケソン大統領の親日的行動はアメリカとの独立交渉において、アメリカの出方によっては日本に頼ることを示した外交上のゼスチャーであったのか、あるいは対立する日米の枠外にフィリピンを起きたいという小国特有の外交術であったかは不明である。しかし、このようにフィリピンでは独立に関しては常に日本に対する期待があった。第二次独立戦争後に日本や日本人がフィリピンの独立を支援することはなかったが、フィリピン人は日本を意識し日本に期待し日本を利用するなど、日本はフィリピン独立に関しては常に影の主役を演じ続けたのであった52。

 革命軍司令官のリカルテ(Artemio Ricarte)将軍は、アメリカへの帰順を拒否し投獄や国外追放を繰り返したが、1915年には日本に亡命した。その後、ケソン大統領になると大統領は再三帰国を勧めた。しかし、リカルテ将軍は星条旗が翻っている間は帰国しないと応ぜず、リカルテが帰国したのは30数年後の1941年12月末であった。日本軍とともにマニラに入ったリカルテをホセ・リサール夫人やラモスが出迎えた。リカルテ将軍が帰国したことを知ったサクダル・ガナップ党員やリカルテ信奉者は歓喜した。しかし、フィリピンを占領した日本軍はフィリピンの占領行政に、リカルテなどの反体制派は排除され従来のエリート集団を登用した。日本軍が親日派を登用し始めたのは日本の敗北が確定した1944年中旬以降であり、11月にはリカルテ、ラモス、ピオ・ドランなどによって「アジアからアングロサクソンの影響を一掃し、フィリピン共和国を守備し、平和と秩序を守り、アジアの共通の的と闘うために日本軍への協力を惜しまないと」という目的で、日本軍の支援を受けて愛国同志会が結成された。しかし、リカルテ将軍はこの組織とは別に1944年11月24日、フィリピンは自分の手で守ると「平和と秩序の義勇軍」を、また、翌1945年1月にはアウレリオ・アルペロが「タガルグの鉄の腕(タガログ語でフィリピン人の影響が再び戻るよう鉄のような意志で遂行すると言う意味)」を結成した。そして、アルペロは1945年1月、日本軍の敗北を眼の当たりにしながら、「我々は栄光あるタガラ(フィリピン人)の国民である。スペインのフィリップのものでもなければ、アメリカのものでもない。まして日本のものでもない。決して他者の道具にはなるまい。私的な考えに惑わされ国のことを忘れてはならない」として武器を取った。かれらは決して日本のために戦ったのではなかった。しかし、戦後に待っていたのは「裏切り者」、「反逆者」、「日本軍の犬」という汚名であり投獄だった。日本の金剛の寄港によって火がついた日本の援助により独立を達成しようとしたフィリピン人の夢は挫折し、アメリカの援助により戦前からの少数エリートによる独裁制が再び復活したのであった53。

おわりに
 日本政府は決してフィリピンの独立戦争時に、 革命派の要求を認め支援することはなかったし、 その後も太平洋戦争直前に至っても、対米戦争を避けるためにフィリピン迂回論、米英分離論が真剣に討議されていたことが示すとおり、日本のフィリピンに関する関心は終始経済的な進出と移民問題にあった。また、日本の南洋群島占領後に生じた南進のドライブも、移民や通商の拡大であり、しかも南進の方向は委任統治領となった南洋群島やニューギニアであり、1930年代後半に生じた第三次南進も、1940年7月26日に近衛内閣が本格的に推進した基本国策要綱(1940年7月26日)や、27日の「大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」でも、南進の対象は仏印、香港、南太平洋の旧ドイツ領土などであり、フィリピンを武力で占領する計画はなかった。このように、日本の脅威というものは、フィリピン人の単なる日本の援助に対する「ファンタシーの産物」から生まれたものであった。日本に対する過大期待が単なる土俗宗教的な信仰にともなうものから生まれたのか、あるいは日本に派遣されたラモスやポンセなどの水増し的な報告や回想によるのかは不明であるが、僅か6名の義勇軍の独立戦争への参加と、途中で沈んでしまった布引丸の武器援助が、 その後半世紀にわたり日米間に大きな猜疑心を生み、日米・日比間に緊張と対立をもたらしたのであった。