戦後の江田島―幹部候補生学校と第1術科学校
米軍の兵学校接収と返還
1945年8月15日の終戦から占領軍の進駐までの短い期間に、兵学校では資料の焼却や引き渡し目録などの作成が行われた。特に参考館の資料は占領軍の来る前に焼却や寄贈者への返還などを行ったが、この作業も進展しない9月17日に枕崎台風が襲い、参考館の地下室に土砂が流れ込み多くの所蔵品が埋まってしまった。しかも占領軍による土砂排除が始まったのは翌年2月、所蔵品の多くが流れ込んだ土砂と一緒に破棄されたという。45年9月26日に米軍の先遣隊が呉に進駐し、10月6日に本隊が到着、兵学校には10月6日に先遣隊が進駐し、10月末に本隊(砲兵大隊)が進駐した。
駐留した米軍は兵学校の収容能力に着目し、総合病院とする計画もあったが、12月18日には連合軍総司令官マッカーサー元帥と、英連邦軍司令官ノースコット中将との協定で中国・四国地方を英連邦軍が占領することになり、21年2月に英連邦軍が呉、江田島に進駐し、同年5月16日に英連邦軍在日総司令部が兵学校に開設された。占領軍の大型トラックを通すため正門の位置が現在の場所に変えられ、正門から大講堂にかけて建っていた官舎が取り壊され、車庫や消防などの建物が建てられた。
英連邦軍の軍政区域が中国地方から四国など9県に及んだため、英連邦軍管轄下の県庁職員は交通事情の悪い敗戦後に、占領軍の認可などを得るために数日がかりで江田島詣でをしたという。英連邦軍は2年後の昭和23年6月1日に呉に去り、兵学校は米軍の管轄下に移り江田島キャンプと呼称された。昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、8月10日に警察予備隊が誕生すると、米軍は8月23日には警察予備隊の幹部教育のために江田島学校を開校し、警察予備隊の4000名が教育を受けた。続いて米陸軍教育司令部が特科学校を開校し、朝鮮出動前の兵士に対する事前訓練を行っていたが、昭和30年8月には停戦協定により特科学校は閉校した。
第1術科学校の創設
昭和26年9月8日に対日講和条約がサンフランシスコで調印され、その1ヶ月後の10月20日に、マッカーサー司令官に変わったリッジウェイ司令官から吉田茂総理に、貸与艦艇の受け入れと運用体制を確立するため旧海軍から8名、海上保安庁から2名で委員会を設け検討することを要請された。そして生まれたのがY委員会であり、これにより誕生したのがY機構(海上警備隊)であった。委員会で今後の海上自衛隊のあり方などが討議されたが、術科教育については28年1月7日に横須賀地方総幹部内に警備隊術科学校検討委員会が設置され、組織、運営、術科の種類や内容などについての研究調査が始められた。この委員会では旧海軍のように術科毎に学校を開設すべきとの意見と、一つの学校で総合的に行うべきであるとの意見などがあったが、現状では総合的な術科学校にすべきであるとされ、とりあえず砲術(射撃、射管)、運用、電測、掃海、航海、通信、機関、電機、電子整備、水測、応急、経理補給、航空、潜水艦、統率、体育陸戦科などの術科を教育することとした。また、課程については初級幹部を対象とした甲種普通科、科長要員対象の甲種高等科、上級幹部の専門術科教育として甲種専攻科、業務管理や教育法、警務、体育、外国語などを教える甲種特修科、さらに大学卒業生を対象とした幹部候補生課程や、中途採用の技師や医師などに対する入隊講習を行うこととした。また、海曹士については各術科毎に乙種普通科、高等科、特修科課程を計画し教育を始めた。
警備隊術科学校の開校式は28年11月15日に田浦の元海軍水雷学校で行われたが、昭和29年7月1日には防衛庁が誕生し、警備隊から海上自衛隊へと呼称が変わった。昭和30年6月に江田島の返還が知らされると、9月には海上幕僚監部内に術科学校移転準備委員会が設置された。江田島キャンプの正式返還は31年1月10日に行われ、その5日後には田浦から術科学校(機関科を除く)と呉から練習隊(教育隊)が移転し、5月16日には術科学校の開校式典が行われた。翌32年3月20日には旧海兵団が英豪軍から返還され教育隊は呉に移動し、33年には田浦に機関関係を教える第2術科学校が開校したため、江田島は第1術科学校と名称を変えた。また、この年には海上自衛隊江田島病院も開院した。昭和35年には舞鶴教育隊で教育を受けていた旧海軍の特年兵にあたる水測科・通信科などの生徒を、生徒教育部を開設して江田島に移動したが、昭和45年には少年術科学校として分離独立させた。しかし、防衛費削減の波を受け昭和58年に廃校となり、再び生徒教育部として第1術科学校に吸収された。
幹部候補生学校の誕生
海上自衛隊を担う新しい幹部は、とりあえず兵学校などの卒業生に呼びかけて確保できたが、その後の補充については昭和26年4月に開校した海上保安大学校に依頼し、同校の2期生に海上自衛隊要員として50名が追加され、これは翌年の3期生まで続いた。また、保安大学校の卒業生が部隊に配置されるまでの繋ぎは一般大学の卒業生で補うこととし、一般幹部候補生40名、技術幹部候補生20名、医官候補生約10名の合計70名を採用することし、昭和27年10月25日から募集を開始し、全国11カ所で試験を行った。しかし、当時の社会情勢と募集活動が不十分なことから153名しか応募がなく、2次試験に合格した者は47名、その中から入校したのは一般幹部候補生9名、技術6名、医官2名の17名に過ぎなかった。この1期幹部候補生は28年5月25日に入校し横須賀地方総監部で教育を始め、9月には旧海軍水雷学校に新設された警備隊術科学校に移転した。また、第1回の募集で計画数を採用できなかったため第2回の応募を始めたが、国会が解散したため関係法案の審議が遅れ、2期幹部候補生38名の入校は11月となってしまった。術科学校の移転にともない4期、5期の幹部候補生も31年3月に江田島に異動した。
昭和32年3月には防衛大学校1期生が卒業した。しかし、昭和29年には陸上自衛隊幹部候補生学校が、昭和30年には航空自衛隊幹部学校が開校していたが、防衛大学校1期生の海上要員には幹部候補生学校はなかった。大蔵省が認めず、海上自衛隊の幹部候補生学校が認可されたのは陸上自衛隊より3年遅れの昭和32年、しかも32度概算要求の最後の復活段階で認められるほどの難産で、開校も4月1日には間に合わず、開校式典は5月10日にずれ込むなど波高き開校であった。しかし、翌33年4月には兵学校の生徒館(通称・赤煉瓦)が第1術科学校から幹部候補生学校に引き渡され、兵学校出身の教官は張り切ったが、防衛大1期生は冷めたいもので「新しい海軍は俺たちで作る。敗軍の将、兵を語るなかれ」と無視、棒倒しを強制されると「帝国海軍は棒倒しで負けた、俺たちは棒起こしをしよう」などと『幹部候補生学校新聞』に書いて教官を烈火の如く怒らせていた。
次ぎに幹部候補生学校の課程を紹介しよう。昭和32年に開始した幹部課程は大学や防衛大学校卒業者のための一般幹部候補生課程、准尉や海曹長などの幹部予定者課程、医科歯科幹部候補生課程、それに技術系統や一般大学出身の婦人自衛官を養成する公募幹部課程の4つの課程であった。その後、昭和35年には航空学生出身者に対する飛行幹部候補生課程、昭和37年に一般大学理工科卒業者を対象とした一般幹部候補生第3課程、昭和42年に部内選抜試験合格者に対する一般幹部候補生部内課程(旧兵学校の選修科に相当)、50年には一般大学出身の女性を対象に一般幹部候補生第4課程が始まった。なお、これまでに教育を受けた各課程別人数は表の通りである。
幹部候補生学校が教育した課程別員数(平成19年12月3日現在)
課程名 | 回次 | 卒業生数(婦人) | |
一般幹部候補生 | 57期 | 7935名(199名) | |
一般幹部候補生婦人 | 5期 | (29名) | |
一般幹部候補生(部内課程) | 40期 | 4005名(31名) | |
飛行幹部候補生 | 59期 | 2484名(5名) | |
幹部予定者 | 100期 | 8629名(4名) | |
医科歯科幹部候補生 | 28期 | 530名(37名) | |
公募幹部 | 66期 | 383名(14名) | |
総合計 | 23893名(319名) |
候補生学校の行事としては短艇競技、遠泳、帆走・幕営訓練、弥山登山競技、棒倒しなど兵学校が行っていた各種行事や訓練もあるが、戦後には陸海空の幹部候補生学校の交換行事が加わり、47年からは米海軍からの連絡士官も派遣され、48年からは日米海軍の候補生との交歓行事も行われてる。一方、平成9年には空前の景気に恵まれホテルのような学生館も完成し、平成19年10月26日には盛大に開校50周年記念行事が行われ半世紀の歴史は新しい段階を迎えた。
伝統と未来
海上自衛隊は陸海空自衛隊の中では「伝統墨守、唯我独尊」と言われながらも、「五省」を掲げ「東郷元帥」「広瀬武夫」「佐久間艇長」などの写真を掲げて伝統を守ってきた(現在は「五省」のみ)。海軍兵学寮の兵学頭(校長)の川村純義大丞(大佐)は、明治天皇に「軍艦は金さえあれば何時でも買えますが、人物はそう一概にはできませね。ゆえに海軍士官の養成を先にし、いつでも数艘の軍艦を指揮操縦する人物を養成しておきたい。陸軍の方は昔の士族でも事が足りましょうが、海軍は古来船乗りと称し常に世人に軽視されていますから、海軍士官の養成は目下の急務でありましょう。また、海軍の拡張も、なかなか一朝一夕に行われるものではありませね。学校を巣立って5年、実地研究が10年、都合15年を期してやや見るべき海軍になりましょうと上申したが、これがちょうど23年目に日清戦争になりました」と回想している。
この明治4年の上奏のとおり、日本海軍は人の養成を第一とし、明治6年には英国からドグラス中佐など34名を招聘したが、最初の軍艦を購入したのは明治8年であり、日本海軍は武器よりも人の養成を先にし、明治16年に完成した兵学寮は東京初の赤レンガ建造物であり、隣接の木造の海軍省は兵学寮の付属物かと誤解されるほどであった。しかし、海上自衛隊は過去50年間、人の養成よりも次々と開発される新しい兵器の導入と、その実戦化に血道を上げてこなかったか。また、帝国海軍の伝統と教えられた伝統が、卒業後に直ぐに役立つ敗戦直前の兵学校で教えられた伝統ではなかったか。武器の発達、更新はめざましく使いこなすには多大の労力が必要であるが、創立50周年を迎え新しい世紀に進むこのときに、熟慮すべきは人の養成であり、新しい教育と伝統の問題ではないだろうか。最近の多発する海上自衛隊の不祥事を見るにつけ、人の育成を兵器の導入より先にした初代兵学校校長・川村義純の言葉を思い起こして貰いたいと一先輩として願っている。故人曰く「人は石垣、人は城」と。