モンロー主義とオレンジ計画
モンロー主義とアメリカ海軍

1823年に第5代モンロー大統領はラテンアメリカの独立政府を圧迫するヨーロッパ諸国の、 いかなる干渉もアメリカ合衆国に対する非友好な意志の表明とみなさざるをえないとの教書を発した。 これは大統領による一方的な意志表示であり、 国家間の取り決めでもなかった。しかし、 以後このモンロー宣言がアメリカ外交の伝統となり、 このモンロー主義が19世紀末から、ヨーロッパの干渉を排除することを名目に、 ラテン・アメリカ諸国への干渉権と拡大解釈され、 ニカラグアやベネゼラなどの中南米などへの干渉の正当性を主張する聖典となった。モンロー主義は時を経るに従い変質し、 その後はハワイ、 フィリピン、 さらには中国へと適用地域っを拡大しようとした。 このモンロー主義と海軍を結び付けた理論家がアルフレッド・T・マハン海軍少将であり、 政治家では第26大統領となったセオドア・ローズヴエルトであり、 後に上院外交委員長ともなった上院議員のヘンリー・G・ロッジであった。
マハン少将は『海上権力史論』で生産力の増大が海外市場を必要とし、 製品と市場を結ぶため海運業が育ち、この海外市場と商船隊を保護するのが海軍の任務であると海軍を位置付けた。 そして、 海洋活動を行う商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍、 その活動を支える港や造船所などがシーパワー(海上権力)であり、 このシーパワーが国家に繁栄と富をもたらし、 世界の歴史をコントロールすると論じた。これを読んだローズヴェルト海軍次官は、『アトランティック・マンスリー』誌に「アメリカが必要とするのは巡洋艦の寄せ集めではない。 いかなる国の海軍にも負けない強力な戦艦群の大海軍である。 アメリカのシーパワーの復活が通商の拡大とアメリカの繁栄を導く」との意見を投稿したが、 さらに1879年には海軍大学校の講演で、 アメリカは防衛だけでなく攻撃を目標とする海軍を建設すべきである。 海軍力を増強しなければモンロー主義宣言とアメリカの名誉を放棄することになると演説し、 モンロー主義と海軍を結び付けたのであった。
モンロー主義の太平洋への拡大

『海上権力史論』で名声を得たマハンが最初に書いた論説は「合衆国海外に目を転ず」で、マハンはこの論説でアメリカ西岸の安全のためには「サンフランシスコから3000マイル以内にある港湾、
すなわちハワイ・ガラパゴス・中南米などに外国の給炭所を獲得させないという不退転の決意をもたなければならない」とモンロー主義を西海岸に適用しようとした。
しかし、 国民の理解が得られずハワイが併合されたのは、 その5年後の1889年8月であった。 一方、ハワイ併合をめぐる日米の対立がアメリカに最初の対日戦争計画を立案させたが、
当時のアメリカはマハンの教議「艦隊を2分するな」に従い、 艦隊主力を大西洋に配備していたため、 艦隊を太平洋に回航する前に日本軍にハワイ諸島やアリュシャン列島、
状況によってはピュジェット・サンド湾(シアトル南部)を占領されると見積もらざるを得なかった。この解決策はパナマ運河の建設であった。 レセップスのパナマ運河会社が資金難となると、
マッキンレー大統領は1897年に元海軍軍務局長ウォーカー提督をパナマ運河委員長に指定した。 そして、 1902年6月にはウォーカー委員会の答申を受け、
議会はパナマ運河建設法案を通過させた。
さらに、 1903年11月にコロンビア政府が運河地帯の租借を拒否すると、
パナマ地方の住民にコロンビアからの分離運動を起こさせ、 砲艦ナッシュビルを送って分離独立派を支援し、
パナマをコロンビアから分離独立させ、 運河地帯を永久に租借する運河条約を新生パナマ政府と締結した。しかし、
フィリピン、ハワイ、グアムを併合し、 アメリカが中国への進出を企てた時には、
中国はすでにヨーロッパ列強や日本により分割がほぼ完了していた。遅れて参入したアメリカに許される方法は平和的商業的進出しかなかった。
ジョン・ヘイは1899年9月に、 門戸開放・機会均等などの門戸開放宣言を列国に提唱した。
しかし、 「オープンドアー政策」に対する列国の反応は冷たいものであった。 特に問題はロシアの南下であり、
アメリカ海軍部内にはロシアの南下を阻止するために、 日英米の3海軍国が同盟すべきであるとの意見さえ表明されていた。
しかし、 日本海軍が日本海海戦でアメリカの予想を上回る大勝をおさめ、 さらに戦後の不景気からアメリカ西岸に移民が急速に増加すると日米関係は一転した。
ロシアの脅威が消えると日本は太平洋における唯一の仮想敵国とされ、 日本の脅威が過大に扇動され軍備増強が訴えられた。
1906年年にはサンフランシスコ市議会が日本人学童の隔離教育法案を、 1912年にはカリフォルニヤ州議会が日本人の土地所有禁止法案を通過させた。
このような日米の人種問題の対立からアメリカには対日ウォー・スケアの嵐が吹き荒れ対日脅威が過大に報じられたが、
1912年4月1日にはサンフランシスコ・エキザミナー紙が、 日本がメキシコのマグダレナ湾に2万人の大規模な入植地を建設する計画を進めていると書き、
さらに2日後には日本人の入植者は現在7万5000人で、その大多数は兵隊であると報じた。この記事に海軍主義者のロッジ上院議員は、なぜ日本がアメリカ西岸やパナマ運河に重大な脅威を与える土地を購入しようとしているかを知らねばならない。
これはモンロー主義にも関係すると、 日本海軍がメキシコに基地を獲得することの危険について警告し、
モンロー主義の太平洋岸への最初の適用ともいわれた「アメリカ合衆国の交通に脅威を与える位置にある土地を、諸外国が購入し所有することを重大視せざるを得ない」との決議案を通過させた。
オレンジ計画の問題点
最初の対日戦争計画はハワイをアメリカが併合した1906年に生じた対日摩擦によって作成されたが、
それはハワイを防御するという防御的なものであった。 次いでオレンジ計画が本格化したのは1906年のカリフォルニヤに於ける学童隔離法案の採択にともなう日米の対立で、
この事件を契機に日本軍の攻撃により極東のアメリカ領フィリピンやグアムを失う第1段階、
反撃に転じ日本艦隊を決戦で敗北させる第2段階、 日本を包囲し海上封鎖によって日本を経済的に追い詰め屈服させる第3段階からなる対日戦争計画が慨成された。
しかし、 問題は日米間に横たわる太平洋の広がりで、 特に第一次世界大戦で日本が南洋群島を領有したことは太平洋渡航作戦を極めて困難なものとし、
さらに、 ワシントン条約第19条によりグアムやフィリピンの軍備の現状維持を強いられたアメリカは、
フィリピンやグアムを緒戦に日本軍に占領されると見積もらざるを得ず、対日戦争計画の全面的見直しが迫られた。
この対策は多数の補給艦、 工作艦、 給弾艦を艦隊とともに前進させる移動基地構想であっが、
しかし、 問題は膨大な補給量であった。 燃料が石炭から石油に変換されて問題は一歩前進したかに見えた。しかし、
航空機の出現や武器の多様化・近代化により、 1925年1月に太平洋艦隊が作成した対日戦争計画では、
戦艦などの大型戦闘艦25隻、 その他の戦闘艦艇303隻、 兵員輸送船39隻、
輸送船128隻、 タンカー・石炭輸送船など248隻など総計551隻を必要とするものであった。
さらに、 洋上での武器弾薬や物資の移載が困難なことから、 これらの移載は太平洋に散在する珊瑚礁を利用しなければならなかったが、
これらはいずれも日本の統治下にあった。 この問題の解決策として海兵隊のエリス中佐が1921年6月にパラオ、トラックなどの島嶼を逐次占領し、
艦隊の中継基地としながら前進するミクロネシア前進基地構想を案出し、 ここに日本を敗北させた「飛び石作戦」が生まれた。
しかし、 アメリカ海軍には戦うために多量の軍需品を運ばなければならないというハンディキャップがあり、
これら補給部隊が日本海軍の攻撃を受けるため護衛兵力を必要とし、 1939年の統合委員会戦争計画部の計算では基地の防衛、
補給船団の護衛、 日本本土に対する攻勢作戦や日本封鎖作戦を考慮すると、 日本に対して3倍から4倍の兵力が必要であるとされた。
そのうえ、 輸送量の問題は航空時代を迎え日本の陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、
飛行場建設部隊や建設資材、 さらに完成後に必要な各種機材や燃料、 飛行支援施設、
部品などを含めれば日本海軍の5倍から10倍の補給が必要であるという新らしい問題を生起させた。さらに問題は戦争期間で、
1914年には6ケ月あるいは12ケ月と見積もられていたが、 1920年代には2年となり、
1933年には対日兵力比率を5対3に回復するのに3年、 戦争期間は4年から5年、
対日兵力比は4倍が必要であるとされた。 戦争計画者が最も恐れたのは、 戦争の長期化にともなう南洋群島の防備強化による犠牲の増加、
アメリア国内の厭戦機運の増大と、 国民が自国の防衛にヴァイタルでないはるかに離れた極東の戦争に長期間耐えられるかという問題であった。
モンロー主義と太平洋戦争

1932年1月に上海事件が起こると、 アメリカはマニラからアジア艦隊を上海に急派し、 居留民の保護にあたらせ、 さらに司令官に3星の大将を当てた。 そして、 1934年には第1次ビンソン法を承認、 海軍力の増強を開始した。 しかし、 陸軍にとり対日戦争は乗り気でなく、 このため1937年には陸軍戦争計画部長エンビック准将は対日戦争は戦争によって得られる成果が費用に見合わない。日本を対象に軍備を増強するのならば、 アメリカ海軍が軍事予算の75パーセントを消費し、 海軍がアメリカの富を消耗し、 そのうえ本国の防備には全く効果がない。 長期にわたる国益にあまりかかわらない戦争を国民は支持しない。 オレンジ計画は戦略的には愚かな「狂気の計画」であり、 防衛線をアラスカーハワイーパナマの線に後退すべきであると主張した。
しかし、 アメリカ海軍は戦争計画課での審議であれ、 将官会議あるいは陸海軍統合会議であれ、
議会であれ常にフィリピンの戦いだけを切り放して考えるべきではない。フィリピンは極東の自由主義の窓であり、
中国市場へのステップ・ストンである。 フィリピン放棄は中国市場からの撤退に連なると強く主張した。
一方、 すでにアメリカ外交の基軸ともなったモンロー主義は、 1930年代には中国の平和と安全の確保、
領土と主権の保持と中国大陸にまで拡大されていた。 エベリー海軍作戦部長の「列国の利害がからむ中国に対する門戸開放・機会均等のヘィ・ドクトリンを遂行するためには、
攻撃的海軍が必要である」との言葉を借りるまでもなく、 アメリカ海軍の増強と東洋への進出は中国市場に対する門戸開放政策に発し、
それはマハンによって鼓舞された海軍力の偉大さは国家に威信と富をもたらすという教議からうまれたものであったが、
それは列国の、 特に日本の中国への干渉を許さないというモンロー主義の中国への適用であった。
そして、 このモンロー主義が「国家の政策と通商を支援し、 本国ならびに海外領土の防衛に当たり、
いかなる地域にもアメリカの意志を示し、 アメリカ外交を支える力を示す」という攻勢的な海軍を生んだのであった。
視点を変えればアメリカ海軍のアジア進出史は、モンロードクトリンの東洋への適用であり、
それは「ヘィ・ドクトリン」という錦の御旗を掲げた「西へ・西へ」と市場を求めた海上開拓史でもあった。
また、 言葉を変えればインデアンを征服し、 西岸に到着したアメリカが太平洋を西進し、
遭遇したのがアパッチならぬ日本海軍であり、 この「西へ・西へ」の潮流が激突したのが太平洋戦争でもあったのである。