日本人特有の国民性とミッドウエー海戦
はじめに
アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官として日本海軍を破ったニミッツ元帥は、『太平洋海戦史』で、ミッドウェー海戦の「敗北は日本にとっては16世紀の末期、
朝鮮の李舜臣の軍勢に破れて以来の最初の大敗北であった」。「太平洋戦争における転換点を示すものであった」と述べている。
確かにミッドウェー海戦は日本の終局的な破綻を招く転機となった海戦であるとともに、
世界海戦史上で最も短時間に急激な運命の破綻をもたらした海戦でもあった。 このためミッドウェー海戦の敗因や戦訓に関しては、すでに多くの優れた研究がなされ改めて論じる余地はあまり残されていない。そこで本論ではミッドウェー海戦の敗因を、和を重視する「合せの妥協」と、伝統墨守の「前動続行」的対応、情報軽視や攻撃偏重の民族的特性、理性よりも感情を重視する「情の統率」など、日本人特有の国民性という視点から分析してみたい。
「合わせ」の妥協と兵力の分散
大化の改新以来、「和を以て貴しとなす」として協調性・柔軟性・淡白などの妥協的な性格が尊重され、非妥協的人物は嫌われ最後まで反対することは忌避すべきこととされてきた。このため反対意見も「和」を考慮し、どちらとも取れる曖昧模糊とした文章に修文し満場一致の賛成を得るなど、日本では有史以来、人間関係が何よりも重視されてきた。この日本人の歴史的体質からミッドウェー海戦の敗因を求めると、各部の要望を総て受け入れて「合わせ」て妥協したため、アリューシャン列島攻略戦の追加による大部隊の編成と指揮系統の複雑化、兵力の分散と目標の不明確化などの問題が生じ敗北した。

連合艦隊司令長官・山本五十六大将は「アメリカの生産力は巨大であり、アメリカに対しては「次々に叩いて行かなければ到底勝てない」と、連続的な攻勢作戦を主張した。一方、大本営では長期持久体制を確立すべきであると主張する陸軍部と、セイロンやハワイを攻略すべきであるとの海軍部の主張が対立し、次期作戦に対する調整がなかなか付かなかった。しかし、足して2で割る「合わせ」からセイロンやミッドウェーより近い、オーストラリアを英米から遮断すれば、「米英連繋ノ拠点ヲ失フ」とともに、 「東亜ニ於ケル有力ナル反攻拠点ヲ失ヒ、 大ナル心理的打撃ヲ受クヘシ」と、フィージー・サモア攻略作戦(FS作戦)が陸海軍間で妥協した。
一方、連合艦隊ではハワイ攻略作戦が航空機が整備される9月まで不可能になると、その間にイギリス艦隊を撃破し、さらにアフリカで快進撃を続けているロンメルの攻勢に合わせようと、セイロン攻略作戦を提案した。しかし、陸軍が兵力を派出できないと反対したため採用されないと、アメリカ空母部隊のヒツトエンドランのゲリラ的攻撃に手を焼いていたこともあり、山本長官は「ミッドウェーに手を出せばアメリカも空母を出撃させざるを得ないであろうから、そこを叩こう」と、ミッドウェー攻略作戦を提案した。軍令部はミッドウェーはハワイに近く、陸上機の支援もありアメリカの制空権下の作戦となり危険である。空母が出撃してくるか否が判らない。占領後の補給も困難であるなどと反対した。しかし、山本長官の辞職をもほのめかす強い要求を入れ最終的には認めた。
そこに、4月18日にはドーリットル飛行隊の本土空襲があり、大本営もミッドウェー攻略作戦を支持するようになったが、大本営はキスカ島やアッツ島からの長距離大型爆撃機による本土空襲や、米ソの連携を遮断しようと両島の占領を要望した。参謀長の宇垣纏少将などは作戦区域が広すぎると反対であったが、山本長官はミッドウェー作戦が認められたためか、あるいは軍令部とあまり対立することを好まなかったためか、大本営の要求を入れ北方作戦を認めた。このため「ミッドウェー島の攻略」「敵空母部隊の撃滅」「アッツ・キスカ島の占領」、陽動作戦としての「ダッチハーバー襲撃」などと、作戦目的が拡散し不明確になってしまった。
また、作戦参加兵力も戦艦11隻、空母8隻、大小艦艇約350隻、航空機約1000機の大部隊となり、参加部隊はアリューシャン列島を攻略する北方部隊(主隊、アッツ攻略部隊、キスカ攻略部隊)、ダッチハーバーを攻撃する第2機動部隊、ミッドウェー方面には前方の警戒監視にあたる先遣部隊(潜水艦17隻)、第1機動部隊(南雲艦隊)、ミッドウェー攻略部隊(本隊・上陸部隊、護衛隊・上陸作戦支援隊)、さらに南雲部隊の後方300海里には山本長官直卒の大和などの主力部隊、途中からミッドウェーとアリューシャン列島の中間海面に進出する旧式戦艦4隻の警戒隊など、参加部隊が増加し指揮系統を複雑にしてしまった。また、このように多数の作戦を同時に推進したため、空母8隻とアメリカ海軍の3倍近い空母兵力を出動させながら、アッツ・キスカ攻略部隊に2隻、山本部隊とミッドウェー攻略部隊に各1隻、南雲機動部隊に4隻と4分され、最も重要なミッドウェー正面では次表に示すとおり、アメリカ軍より100機近くも少ない戦力になってしまった。
ミッドウェー正面の日米航空兵力の比較
空母(空母機) 陸上機
日本海軍 4隻(261機) 0
アメリカ海軍 3隻(233機) 119機
このような「兵力の分散」の愚を犯したのは、異なる主張を取り入れてどちらとも読める玉虫色の文章を作り、合意を得る日本人特有の「合せの妥協」にあったが、これはミッドウェー作戦だけでなく、開戦時に作成された「英米支蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」や、42年3月に陸海軍が同意した「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」にも見あれる妥協の産物であった。すなわち、南方資源地帯の占領後の作戦について、長期自給自足態勢の強化を主張する陸軍と、連続的攻勢作戦を主張する海軍との間で決着が付かなかったが、この対立は「引続キ既得ノ戦果ヲ拡充シテ、長期不敗ノ政戦態勢ヲ整ヘツツ、
機ヲ見テ積極的ノ方策ヲ講ス」と、前半分に陸軍の「長期不敗態勢」を、後半に海軍の「機ヲ見テ積極的ノ方策」を入れて合意された。しかし、陸軍は前半の文言を盾に独ソ戦がドイツに有利に展開したならばシベリアを突こうと、開戦時に南方に投入した兵力を再び満州に引き揚げた。一方、海軍は「機ヲ見テ積極的ノ施策ヲ講ス」との文言を盾に、ソロモン群島などへと戦線を拡大して行った。
「合わせの妥協」と目標の不明確化
軍令部や連合艦隊ではアメリカの反撃はミッドウェー付近に部隊が接近した時点からで、戦略的奇襲が成り立つという前提で作戦計画を立案した。また、米空母が出撃してくるか否には議論があった。このため「連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ『AF(ミッドウェー)』及『AO(アリューシャン)』西部要地を攻略スベシ」との奉勅命令(大海令18号)と、「ミッドウェー島作戦ニ関スル陸海軍中央協定」を準拠して作戦を行うことが指示されたが、陸海軍協定に示された作戦目的は「ミッドウェー島ヲ攻略シ、同方面ヨリスル敵国艦隊ノ機動ヲ封止シ、兼ネテ我カ作戦基地ヲ推進スル」と、ミッドウェー島の占領が第1目的とされ、山本司令長官が強く主張していた米空母の撃滅については、「反撃ノ為出撃シ来ルコトアルベキ敵艦隊ヲ捕捉撃滅ス」と、作戦要領の第4項に示されたに過ぎなかった。しかし、この命令に山本長官は異議を唱えなかった。

そして、それが南雲司令官の判断を狂わせてしまった。南雲中将がインド洋から帰投したのは横須賀であり、呉にいる山本長官と会ったのは5月に行われた図演の時であったが、その折に空母の撃滅を強調した形跡はない。戦略的奇襲が成立するとの海軍部内一般の認識から、南雲司令官は反撃があってもミッドウェー攻撃開始後であろうと思い込み、まさか待ち伏せされているとは想像もしていなかった。そして南雲司令官は作戦命令からミッドウェー島攻略を第1の任務と受け取り、上陸部隊や援護部隊が各方面から定められた上陸時間に合せてミッドウェーに接近中であり、これらの部隊の到着前までに敵航空兵力を撃破し、陸上砲台などを破壊しておかなければならないと考えていた。
南雲司令官としては総てが計画通りに進展しなければ混乱が生じる上陸作戦という複雑な作戦のため、6月5日の朝は動きの取れない「金縛り」の瞬間であった。さらに、偵察機が捜索範囲の反転地点に至っても空母発見の報告がなく、第1次攻撃隊から「再攻撃の要あり」との電報が入った。そして、南雲司令官は敵空母出現に備えて残置していた航空機の雷装を陸上攻撃用の爆装に転換した。しかし、南雲司令官がミッドウェー攻略を主目的と誤解するような曖昧な命令に、なぜ、山本司令長官は抗議し修正させなかったのであろうか。それは山本長官のミッドウェー攻略に出撃すれば、アメリカ艦隊も出撃せざるを得ないという仮定を前提とした作戦構想は極めて異例であり、永野修身軍令部総長や当時の海軍中央に説明しても到底理解されないと考え、摩擦を起こすことを避け実行段階で実現しようとしたのではなかったであろうか。
日米海軍作戦の比較・前動続行と柔軟性の欠如
日露戦争では第1回の旅順攻撃で1万6000人、第2回に4900人の損害を出したにもかかわらず、「日本軍は繰り返し同じ方法でやってきた」とロシアの戦史研究家は述べているが、第2次世界大戦においても「4年近い戦闘を繰り返しながら、日本軍の作戦には殆ど改革のあとが見られなかった」と諸外国の戦史研究家は指摘している。日本海軍の航空部隊がハワイ・マレー沖で戦艦を撃沈し、世界に航空機の時代が到来したことを示すと、アメリカ海軍はいち早く空母を中核とした機動部隊を編成した。しかし、当の日本海軍は米英の戦艦部隊を撃沈したことを最初は喜んだが、しばらくすると航空部隊への嫉妬と反感が生まれたという。そして、航空関係者は最後の決戦は敵戦艦部隊との決戦であると、柱島沖で戦艦部隊は毎日毎日「大砲をひねくり回していた」と大艦巨砲主義から抜け出せない当時の戦艦部隊の状況を不満げに書き残している。戦艦の砲力で勝敗を決するという時代に、砲術や水雷職域に進んだエリート士官たちにとって、偵察や弾着観測などの補助的任務しかできない「チョウチョウやトンボ」と揶揄していた飛行機を搭載している空母を、海の王者の戦艦が守るという地位の逆転が容認できなかったのである。このような認識から南雲部隊の後方から大和以下の戦艦群が、艦隊決戦を待望しながらゾロゾロと付いていったのであり、ここに気付いていても容易に因習から抜け出せない日本民族の欠陥を見る思いがする。
ミッドウェー海に敗北した1ヵ月後の42年7月に戦艦戦隊(比叡・霧島)、巡洋艦戦隊(重巡洋艦5隻)、水雷戦隊(軽巡洋艦1隻・駆逐艦16隻)を加えて第3艦隊が新しく編成された。しかし、戦艦部隊と空母部隊の指揮関係は共同関係とされ、空母部隊の指揮官が戦艦部隊指揮官より後任であったため、ガダルカナルをめぐる戦いで再び不都合が生じた。このため11月には空母部隊指揮官が所在部隊の指揮をとるように改定し、44年3月には大和や武蔵も加えた本来の機動部隊を編成した。しかし、この頃には空母に離着艦できるパイロットが減少し、空母としての本来の機能を失っていた。このように、敗北が続いても日本海軍は戦艦部隊を最後の決戦兵力として温存するなど、旧態依然とした編成で戦い最後まで大艦巨砲主義から脱することができなかったのである。
一方、英米の連携は見事であったし、柔軟性に満ちたものであった。南雲部隊にセイロン島が襲撃され、インド洋の制海権を失うことを恐れたチャーチル首相は、 ローズヴエルト大統領に南雲部隊を牽制し、太平洋に戻らせるよう強く求めた。大統領はこれに応じアメリカ海軍は空母部隊による日本本土空襲を計画した。 しかし、海軍には適当な空母搭載の爆撃機がなかった。するとアメリカ海軍は陸軍のB-15爆撃機を改造し空母ホーネットに搭載した。 日本海軍は通信解析により本土空襲を予期し、 さらに同日早朝には洋上の監視艇からアメリカ艦隊発見の緊急信も受信した。しかし、陸海軍が張り合っている日本海軍は、まさか陸軍機を空母が搭載しているとは思いも付かず、母艦機の航続距離から空襲は翌日であろうと判断した。しかし、 アメリカ海軍は監視艇に発見されると空襲を1日早め、空襲後は空母に戻らなず中国大陸への飛び抜けるという奇想天外な戦法をとり日本海軍の裏をかいた。
情報軽視と攻撃偏重
ニミッツ元帥は「ミッドウェー海戦の勝利は主として情報によるものであった。奇襲を試みようとした日本軍自身が奇襲を受けた」と書いているが、海戦の勝敗を分けたのは情報戦の敗北であった。アメリカ海軍は4月末には日本海軍の暗号電報の解読により計画の概要を知り、行動中の空母をハワイに呼び返し、珊瑚海海戦で傷ついたヨークタウンの修理を3日間で済ませ、空母3隻をミッドウェー北方海域に待機させて待ち受け、航空偵察によって南雲艦隊を探知し迎撃した。これに対して連合艦隊は大和の位置を秘匿するため「米空母行動中」との東京からの情報を南雲部隊に伝えず、南雲部隊もおざなりの偵察しか行わなかった。
ミッドウェー海戦の敗因を偵察や情報などの視点から見てみると、筑摩搭載の偵察機が雲上飛行を行ったため敵を見落としたとか、利根機の発艦や報告が遅れたとかの戦術的敗因や、電報処理の不適切なども大きな要素であったが、その根底にはパイロットに「攻撃という派手な仕事には生命を賭けても行きたがるが、事前の準備とか索敵とかいかいう綿密地味な仕事には行き渋る」気風があり、偵察はパイロットの常識とみなして特別の教育も訓練も行わず、偵察を任務とする航空機も保有していなかったことにあった。このように偵察を軽視していたため、ミッドウェー海戦では偵察を主として戦艦(1機)や巡洋艦(4機)などの艦載水上偵察機に期待し、「攻撃兵力をできるだけ減らしたくなかったので索敵に当てる艦攻の数を減らし」たと、空母からは赤城と加賀から艦上攻撃機各1機を派出したに過ぎなかった。日本海軍の偵察や防御軽視は空母搭載機の機種の比率をみても明らかで、表に示すとおりアメリカ海軍は、偵察・戦闘機を19機、戦闘機を27機保有するなど、偵察や艦隊防空にも力を割きバランスのある構成をとっていた。
しかし、日本海軍は偵察機を保有せず、さらに戦闘機、爆撃機と雷撃機の機数は同率の18機であった。戦闘機の比率が少ないため攻撃機に十分な護衛戦闘機を付けることができず、飛竜から飛び立った第1次攻撃隊の爆撃機18機に対し戦闘機は6機、第2次攻撃隊は雷撃機10機に対して戦闘機は6機しか付けられなかった。このため第1次攻撃隊は18機中12機が、第2次攻撃隊は10機中5機が撃墜された。しかし、さすがに歴戦のパイロットで錬度は高く、命中率は第1次攻撃隊が43パーセント、第2攻撃隊が40パーセントであった。
ミッドウェー海戦時の空母搭載機の機種と搭載数
戦闘機 偵察・爆撃機 爆撃機 艦攻(雷撃機)合計
赤城型 18 18 18 54
エンタプライズ型 27 19 19 15、 80
攻撃偏重のため単に情報や偵察だけでなく、レーダーなどの捜索力、指揮通信力、対空防御力、火災や浸水に対する被害極限の艦内防御などを軽視したため、それがミッドウェー海戦の傷をさらに深めてしまった。ヨークタウンなどは大火災を起こし、沈没確実と報告されたが消火に成功し戦列を去ることはなかったが、日本の空母は3発から4発の命中弾で生じた火災を消火することができず、沈没あるいは自沈させざるを得なかった。
情けと温情の部下統率
軍事指揮官の必須不可欠な要素は進むべき方向を明確に示し、適時適切に判断して目的を達成することにある。部下に対する思いやりや配慮も大切な要件ではあるが、必要なときには温情を殺し、信賞必罰を厳正にして戦いに勝つことである。しかし、優しさから山本長官の処置は常に甘く、ミッドウェー海戦から帰国した南雲長官の作戦報告時に、草鹿参謀長が「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身にあらざるも、どうか復讐できるよう取計らっていただきたい」と述べると、山本長官は「簡単に『承知した』と力強く答えた」という。そして、「突っけば穴だらけであるし、皆が十分反省していることでもあり、その非を十分認めているので、今さら突っついて屍にむち打つ必要はない」と、ミッドウェー海戦の研究会は開かず、南雲中将や草鹿少将の責任も追及することなく、再編された第3艦隊(空母機動部隊)の指揮を再び取らせた。
この情の深さや優しさが山本長官のリーダーシップに影を与えているが、山本長官1人を責めることはできない。日本の指揮官に要求される第1の要素は協調性や「和」であり、「思いやり」なのである。感情に訴えなければ日本ではリーダーシヅプは成り立たないし、情に訴えなければ部下は付いてこない。欧米では集団を導くのに必要なものは「理(理念や理想)」であるが、日本人は「理」にかなっていても、 それが「和」にかない「情(感情や温情)」がなければ受け入れない。 「正義」や「人権」などの「理」を全面にかざしても日本人は応じない。 日本人が応じるのは「理」とは対照的な位置にある「情」なのである。 それが練習艦にすべきであるとの意見もあった扶桑や山城などの老朽戦艦を、航海手当てや戦時手当てを支給させ、士気を高揚するという「理」とはほど遠い「心配り」の温情から太平洋の真ん中まで出動させたのであった。しかし、この温情が南雲機動部隊の対空防御力を奪ってしまった。下表はミッドウェー正面の日米空母部隊の艦艇構成表であるが、アメリカ部隊には巡洋艦を含め空母1隻に7・3の護衛艦艇が配属されていたが、南雲部隊には3・75隻しか配属されなかった。遊兵に過ぎない旧式戦艦部隊を護衛するために派出された軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻を南雲部隊に配属していたならば、対空砲火も増大し多少は被害も減少できたではなかったであろうか。
日米機動部隊の兵力組成の比較
|
空母 |
戦艦 |
重巡 |
軽巡 |
駆逐艦 |
日本 |
4 |
2 |
2 |
1 |
12 |
米国 |
3 |
0 |
7 |
1 |
14 |
また、山本長官が「指揮官先頭」というネルソン時代の海軍の伝統や、明治の東郷元帥の時代の因習から脱して旗艦を旧式戦艦に移し、柱島沖から全般指揮を取っていれば、「敵空母行動中」の電報も発信できたし、作戦に対する全般指揮もできたのではなかったか。また、戦略の要諦である「兵力集中」を守り、ダッチハーバー空襲などを行わず、さらに大和などの戦艦部隊を南雲部隊とともに行動させていれば、南雲司令官が空母を統一運用し航空兵力の一部を常にアメリカ艦隊の出現に備え、敵空母発見の報告で直ちに発艦させていたかもしれなかった。

難を逃れた飛竜から発進した戦闘機6機、爆撃機18機の第1次攻撃隊と、戦闘機6機、雷撃機1○機の第2次攻撃隊が、ヨークタウンに爆弾3発と魚雷2発を命中させ航行不能としたことを考えると、小型空母でもエンタープライズやホーネットを撃沈あるいは撃破(航空機発着不能)していたかもしれなかった。あるいは日米相打ちで相亙に全空母を失い、水上部隊の打撃戦が生起したならば、圧倒的水上兵力を保有していた日本海軍が、損傷し航空機発着不能の空母を含むアメリカ艦艇をことごとく撃沈していたかもしれなかったであろう。。有り余るほどの艦艇を保有しながら南雲部隊は決戦場面では劣勢で対決しなければならなかったが、ニミッツ元帥は「日本が8隻の空母と11隻の戦艦を集中していたならば、3隻の空母ではいかに幸運と技量をともなっていたとしても、勝利などは思いもよらないものであった」と述べている。
日米指揮官の比較
「後方ニ空母ラシキモノ1隻ヲ伴フ」という電報が入り、続いて第3航空戦隊司令官山口多聞少将から「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」との進言があったが、南雲司令官は源田実航空参謀の意見を入れ、山口司令官の進言を無視して貴重な時間を空費してしまった。一方、旗艦の大和では「米空母行動中」との東京からの通信傍受情報を、赤城に中継するよう山本長官が指示した。しかし、先任参謀の黒島亀人大佐が無線封止と赤城も受信しているであろうとの理由で指示に従わなかった。なぜ、日本海軍ではこのように指揮官の意向が参謀によって阻止されるのであろうか。それは日本の指揮官像にある。農耕民族の「ムラ」社会では毎年同じ農作業を繰り返えすため、経験が重視され年功序列に従って指揮官が選ばれる。
この社会では指揮官に要求されるのは人格であり能力ではない。アメリカ海軍では人物としては指揮官であっても、能力がともなわなけれぱ指揮官にはなれない。しかし、日本では下から上に意見を調整しながら上げて行く稟議制度のため、指揮官は人物さえよければ大綱だけを握り、あとは参謀に任せ参謀が働きやすいようにするのがリーダーの理想と考えられてきた。このため日本では人物が人格的に長官の器であるならぱ、優秀な参謀を配して補佐するので、航空作戦には素人の水雷出身の南雲中将を航空部隊の指揮官に据えた。それが「老けすぎて」「勝負度胸に乏しい」ため臨機応変の措置の欠如となり、緊急時の対応を誤らせ敗北に導いたと、赤城飛行隊長の淵田美津雄中佐は書いている。
一方、アメリカでは真珠湾を奇襲されたキンメル大将は、太平洋艦隊司令長官の職を追われ査問委員会にかけられた。また、南太平洋部隊司令官のゴームリー中将、第十一機動部隊指揮官のブラウン中将、空母部隊指揮官のパウノール少将など、多くの指揮官が戦意に欠けたとか、作戦指揮が不良であるとか、指揮官の若返りとかの理由で交代させられた。しかし、日本ではハワイ攻撃の際に第2撃を加えずに帰投した南雲司令官を、山本長官は「泥棒だって帰りは怖いよ」とかばった。そして、参謀の「再攻撃の命令を出すべきである」との進言に、「これをやれば満点だが、被害状態もまだ解らないし、ここは現場にまかせようと」と答え、さらに「やる者はいわれなくともやるさ、しかし、南雲はやらないだろう」と答えたという。ハワイ攻撃は山本長官が軍令部の反対を排して強行した作戦であった。真珠湾はそれほど強い決心で始めた作戦であった。それなのに、山本長官は水雷出身者で航空作戦に暗く決断力に欠け、「小心翼翼」といわれていた南雲中将から航空作戦に明るい戦争度胸も十分な、第2航空戦隊司令官の山口多聞少将に代えなかった。それは年功序列重視の日本ではでは組織を乱し人間関係を破壊するからであった。

また、日本海軍の人間関係は論争を好まないためであろうか、意図を明確に示すことを避ける傾向が見られる。たとえば、ミッドウェー海戦に関して軍令部と連合艦隊との認識は大きく異なっていたが、山本長官は軍令部との調整も部下指揮官への説明も十分にすることなく参謀に任せた。一方、山本長官と永野総長との直接の話し合いも少なく、開戦から山本長官が戦死した43年4月までの2年半の間に、永野総長が山本長官を訪れたのは真珠湾攻撃から南雲部隊が帰投した日の1日だけ、それも朝に旗艦の長門を訪問し南雲司令官の報告を聞き、山本長官とともに赤城を訪問して各級指揮官に訓辞を与え、大和を視察して午後には帰京しており、両者とも故意にゆっくり話すことを避けるような日程であった。
これはミッドウェー海戦の敗北後も、ガダルカナルをめぐる悪戦苦闘中も同様で、永野総長が山本長官を呼び直接話を聞くことも、山本長官が永野総長を訪れ直接報告することもなかった。一方、山本長官は実施に当たっては現場指揮官の判断を重視し極力介入を慎み、部下指揮官の状況判断と処置にゆだねる傾向が強かった。そして、これがハワイの第2撃問題やミッドウェー作戦における不徹底な作戦指導となったた。これに比べ作戦部長キングと太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、電報や公信、さらには私信を交換し、時には幕僚を派遣して意志の疎通に努め、4年半の戦争中に19回、2から3月に1回の割りで会談していた。
おわりに
目標を不明確にし兵力を分散してしまった「合せの妥協」は、現在でも批判を浴びながら「総花的予算編成」「ばらまき予算配分」、自民党と社会党、自民党と公明党の政策合意文書などとして続いている。また、日本海軍は大艦巨砲主義を最後まで抜本的に改められなかったが、因習にこだわり容易に改革ができない理由は当時も今も変わらない。それは自己の既得権を失うことをおそれ、改革には反対する旧守派の抵抗勢力が存在し反対するからであるが、それは日本人が合理性に欠けセクショナリズムに走るからである。熱しやすく冷めやすく、すぐに思い上がり相手を見下げ、希望と現実を混同し漫然としてことに臨み抜本的改革ができないという欠陥も変わっていない。このようにミッドウェー海戦は現在も日本の発展を阻害している日本民族の基本的欠陥を見事に暴きたてた海戦であり、その敗因には多くの現在にも通じる学ぶべき点がある。しかし、わが国におけるミッドウェー海戦の研究は軍事面に限られ、敗北の責任を軍人のみのに求め、責任や過失を追及する傾向が戦後長らく続いてきた。戦争から半世紀が過ぎた今日、死者の責任を追及し非難するのではなく、広い視点から教訓を掘り起こし、ミッドウェー敗戦の教訓を21世紀の日本に生かすべきではないか。また、それが国家のために命をささげ、ミッドウェー沖に眠る3500余の将兵に対する何よりの慰霊ではないか。
参考図書
防衛研修所『戦史叢書 ミッドウェー』(朝雲新聞社)
C・W・ニミッツ、E・B・ポーッター『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文堂)
宇垣纏『戦藻録』(原書房)、
草鹿竜之助『連合艦隊の栄光と終焉』(行政通信社)
淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』(朝日ソノラマ)