海上ロジステックス発達史

はじめに

 母国を遠く離れた艦隊が持てる能力を長期にわたって全力発揮させるためには、戦闘力の発揮に必要な弾薬、燃料、 食糧や整備に必要な部品を補給するとともに、 戦闘で被害が生じた場合には修理しなければならない。 アメリカは過去、 友邦や同盟国を支援し「アメリカの平和」を維持するために、紛争予想地帯に軍事力を事前に展開し、朝鮮戦争、ベトナム戦争や湾岸戦争などのホットな戦争から、金門島砲撃事件やラオス介入などの低次元の危機にいたるまで、常に緊迫したアジアや中近東の各地に海軍力を展開してきた。この第七艦隊に表徴されるアメリカの海軍力は、 航空打撃力を持つ空母部隊、 空輸展開能力をも持っ海兵隊や輸送船群からなり、 アメリカ本土から数千海里も離れたアジアや中近東地域のあらゆる事態に展開してきたが、 このアメリカの海洋戦略、 前方展開戦略を支えているのがロジスティツクと呼ばれる後方支援である。 このロジステイックスには前進(中継)基地を設営して行うのと、 戦闘艦艇を基地依存から解放し洋上で各種支援艦が行う支援とがあるが、 以下、 本論ではこの洋上ロジスティクスが海軍戦略の中で、 どのような意義を持ち、 また、 どのように発展をなして来たかを考えてみたい。

1 洋上ロジステイックスの誕生

 帆船時代には砲の発射速度も遅く多量の砲弾や燃料を搭載する必要がなかったため、 ロジステイックスの必要性はあまりなかった。 ロジスティクスが問題となったのは帆船から蒸気船に変わり、 石炭を燃料とすることになってからであり、 洋上ロジスティツク先進国アメリカがこの問題を真剣に考慮しなければならなかったのは米西戦争の時からであった。 当時は軍艦が帆から蒸気推進に変わったため、 石炭と水を3日から4日毎に補給しなければならなかったが、 艦艇も小型で天候による障害も多く、 当時は洋上補給という観念も希薄で、 アメリカ海軍はグアンタモを占領し封鎖艦隊の補給基地とした。 そして、 この深刻な経験が基地の重要性を認識させた。 海軍戦略家アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)は戦闘正面と基地を結ぶ連絡線を「交通(Communication)」という言葉を使い「軍隊が国力と結ばれ活動を維持するための線」。 しかし「陸軍のいう地理的なものではなく艦隊が船体の大きさによる制約から運べない補給必需品」、 すなわち燃料、 弾薬、 食糧と規定した。 しかし、 当時は海上補給の概念が薄弱であったため艦隊が本国から離れた地域で行動するには海外石炭基地が必要であるとして、 ハワイやフィリピンを給炭基地として確保することを強力に主張した。

 また、 当時は燃料が石炭であったが、 その搭載法には受給艦が石炭船を曳航しながら、 石炭を入れた容器をつい下げて両艦を往復させる方法、 接舷して補給船のデリックによって石炭を供給する方法が取られていた。しかし、 1902年にイギリスの戦艦トラファルガー(Trafalgar)が給炭船ミニアリアル(Muriel)から曳航法により搭載した石炭の量は1時間当たり約30トン、 横付補給法ではアメリカの戦艦ワィオミング(Wyoming)に石炭船ジェイソン(Jason)が8本のブームを使用して1時間に292トンであったといわれている。しかし、 明治40年から明治42年にかけてアメリカの海軍力を誇示するために、 ローズベルト(Thodore Roosvelt)大統領が戦艦16隻をもってホワイト・フリートを編成し世界一周航海を実施させたが、 当時のアメリカ海軍はこの艦隊に石炭を補給する給炭船は8隻しかなく、 49隻をイギリスやノルウエーなどの外国から用船しなければならない海上ロジスティツク後進国であった。

2 第1次世界大戦と海上ロジステイックス

 燃料が重油に変わり油槽船からの補給が行われるようになったが、 第一次世界大戦中は見るべきものがなかった。 1905年にイギリスの油槽船ピトロウリャム(Petroleum)が戦艦ヒンドスタン(Hindustan)に約250メートルの距離で曳航され、 両者に鉄索を渡し、 これに直径12.7センチのパイプを吊り下げて給油する方法が試みられた。 ほかに油槽船の船尾から給油する方法や並進する両船の間に太い索を渡して間隔を一定に保ち、 給油艦のデリックカラ受給艦に鋼索を張り、 これに直径9センチのパイプを吊り下げた給油法などが行われていた。一方、アメリカでは1917年に油槽艦マウミー(Maumee)による横曳き給油が行われた。この方法は束ねた7.6センチのホースを2から3本、 ブームの先端に取り付け受給艦に渡す方式で、 受給艦と給油艦は5ノットで航走し、 平穏な海上では1時間に100ないし150キロリットル程度の給油ができたという。 この方法が極めて好成績であったため第一次大戦中、 アメリカ海軍は4隻の油槽船にこの装置を付けた。
 
 一方、第一次世界大戦でドイツが敗北すると太平洋には日米海軍しか残ならなかった。 日本海軍を仮想敵国とするアメリカ海軍にとり、 大きな障害となったのが日米間に横たわる太平洋の広がりであり、 対日作戦の成否は「いかに決戦が行われる戦場に、 修理を完了し充分に補給された部隊を適時に展開するか」の補給問題であった。 このため、 アメリカは1868年にミッドウェー島を、 1898年にウェーキ島を、 1899年にはドイツと争ってサモア諸島のチュチュイラ島を領有し、 さらに1936年にはハウランド島とベィカー島領有し太平洋横断基地網の整備を進めた。しかし、 それ以西には日本が支配する南洋群島がアメリカ艦隊の進路を扼していた。 前進基地を持たないアメリカ海軍は多数の補給艦、 工作艦、 給弾艦を艦隊とともに前進させる移動基地構想を考案した。 しかし、 問題は膨大な補給量であった。 燃料が石炭から石油に変換され問題は一歩前進したかに見えた。しかし、 航空機の出現や武器の多様化・近代化により、 1925年1月に太平洋艦隊が作成した対日戦争計画では、 戦艦などの大型戦闘艦25隻、 その他の戦闘艦艇303隻、 兵員輸送船39隻を支援するのに、 輸送船128隻、 タンカー・石炭輸送船など248隻が必要とされていた。

 さらに航空時代を迎えると、 南洋群島を基地とする日本の陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、 各種機材や燃料、 飛行支援施設、 部品などを含めれば日本の5倍から10倍の物資を運ばなければならないという新しい問題を生起させた。さらに、 武器弾薬や物資の移載が洋上では困難なことから、 これらの移載には太平洋に散在する珊瑚礁を利用しなければならなかったが、 これらはいずれも日本の統治下にあった。 この解決策として考えられたのが、 前進中継基地を開設するために南洋群島の島嶼を逐次占領する「ミクロネシア前進基地構想」であった。 この構想は1924年に作成された対日戦争計画(Orange Plan)で認められ、 「南洋群島占領のための上陸作戦を行い艦隊のための基地を開発する」ことが海兵隊の新しい任務に加えられた。存在理由を得た海兵隊は、 上陸用舟艇の開発や戦術の改善に努め、 1935年には艦隊付属の小型旅団規模の艦隊海兵隊がサンヂエゴに誕生させた。 これが即応体制を維持しつつ揚陸艦とともに移動する、現在の前方展開兵力の主力となった艦隊海兵隊である。 一方、海軍も太平洋横断作戦に必要な、 給弾艦・給糧艦・給油艦・工作艦・病院船や浮ドックなどの各種洋上支援艦艇を整備し、 各種の洋上補給法などを開発し、 遠距離・長期間の戦闘に耐える洋上ロジスティツク支援体制を向上させていった。

2 第2次大戦と海洋ロジステイックス

 予算的制約もあり開戦前にはロジスティツクは重視されず、 ロジスティツク艦艇も開戦1年後に77隻、 翌年10月に358隻に過ぎなかったが、 1943年には浮ドックだけでも72万3000トンに増え、 さらにシー・ビー(Sea Bee)と呼ばれる海兵隊設大隊が創設され、 前進基地建設を効率的、 効果的に行い1943年秋までに太平洋に限っても250カ所の前進基地を開設した。 特に、 マーシャル群島のクェゼリン環礁に設けられた5隊からなる第10役務戦隊は最大の前進補給部隊として、 各種補給艦、 工作艦、 タンカー、 病院船、 サルベージ船、 浮ドックなどからなり、 太平洋各戦線に展開され機動部隊の戦闘力発揮に大きく貢献した。 1944年には艦隊に随伴する任務部隊の一部としての機動支援任務群が編成されるなど洋上支援態勢は格段の進歩をとげ機動支援任務群は「第2時大戦中のアメリカ海軍の秘密兵器」といわれるほど重要な役割をした。

 今日の補給艦艇の原型が、 この時期に確立され、 第2次大戦で最も大量に支援艦艇を建造し、 かつ有効に活用したのがアメリカ海軍であった。 沖縄作戦に参加したミッチャー中将指揮の第38任務部隊(正規空母9隻、改装空母8隻し、 戦艦10隻、 重巡洋艦1隻、軽巡洋艦6隻、 駆逐艦48隻)を支えていたのは第30任務部隊第8補給修理任務群の給油艦33隻、正面部隊の航空機が消耗した時に航空機を補給する予備機を搭載した補助空母11隻、 そのほかに多数の給弾艦・給糧艦が支援したが、 戦闘部隊が被害を受けた場合に修理基地に被害艦艇を曳航する外洋曳船10隻、 さらに、 この部隊を護衛するために駆逐艦18隻、護衛艦27隻が支援していた。 また、 沖縄上陸作戦を実施した第51統合任務部隊の艦艇は45種、 1213隻であったが、 輸送船は649隻(戦車揚陸艦187隻を含む)であった。

 イギリス海軍も沖縄作戦に戦艦2隻、 空母4隻、巡洋艦5隻、 駆逐艦15隻など26隻を展開し、 給油艦10隻、 航空機補給用の護衛空母5隻、 工作艦・救難艦など95隻の後方支援艦艇が支援していた。 しかし、 この補給部隊でもニミッはイギリスの補給修理部隊は長期持久の諸作戦に耐える編成とはなっていなかったと述べている。なお、 イギリス部隊は3月26日から4月20日の26日間の作戦海域に行動後(作戦行動は12日間)、 補給と修理のためレーイテの後方支援基地に帰投し、 次に戦場に到着したのは5月3日であった。

  アメリカ軍は沖縄上陸に先立ち沖縄西方15マイルの慶良間列島を占領し、 工作艦・補給艦・駆逐艦母艦などの各種支援艦艇からなる第10補給任務部隊を機動部隊を支援する移動する第6補給修理部隊とは別に展開し固定補給態勢を確立した。 このようにアメリカ海軍は作戦地域内に補給、 修理などが可能な固定海上支援基地を展開した。 このような支援対し得に支えられ上陸準備段階だけで第58任務部隊からの3000回に及ぶ沖縄に対する航空攻撃を、 また第54任務部隊(上陸援護部隊)の戦艦9隻、 重巡洋艦7隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦24隻、護衛駆逐艦8隻が5000トンに及ぶ砲撃を可能としたのであった。 とはいえ、 これら補給艦艇は商船を改造した程度のものであり、 技術的にはまだ取り立て述べるほどのものもなく、 補給料も多くはなかった。 たとえば沖縄戦の当時、 アメリカの給弾艦ラッセン(Lassen)級が条件の良い海象下でデリックを使って補給し得た弾薬は1日143トン、 給糧艦マーキュリー(Mercury)が補給した冷凍糧食が1日107トンであった。

 一方、 ドイツ海軍はミルヒーク(Milchkuh)という燃料補給潜水艦を利用して、 燃料や魚雷を補給しつつ大西洋に長期間行動させ成果を上げたが、 日本海軍も昭和14年には専門の工作艦明石を、 また、 昭和16年2月には給糧艦伊良湖を、 また開戦にともない遠隔泊地への補給が必要となると冷凍船杵崎型4隻等を、 また補給専門の足摺型・州崎型などの補給専門、の艦艇を世界に先駆け整備するなど洋上支援艦艇については努力してきた。 しかし、 これら艦艇が本格的に機能を発揮する前に、 戦いはこれら支援艦艇を不要とする日本本土近海の戦いに追い込まれてしまった。第2次大戦中、 日本海軍はトラック島を前進基地としていたが、 どの程度の支援艦艇を展開していたであろうか。 昭和19年2月17日にスプルアンス部隊にトラック島が空襲されたが、 その被害から判断すると日本海軍の前方展開支援規模はタンカー5隻、 貨物船11隻 貨客船9隻、 潜水母艦・水上機母艦などの特殊船9隻、 合計32隻、 20万トンであった。

3 第2次大戦後のロジスティツク

 第2次大戦後、洋上ロジステックスを発展させたのは1950年に勃発した朝鮮動乱であった。 ジェット機の出現など対空脅威の増大にともない洋上部隊の最も脆弱性な時間を短縮あるいは対応の柔軟性が求められるに至った。また、 航空攻撃に備え部隊を分散させる必要が生じた。さらに兵器の近代化にともないミサイルなどの壊れ易い物品やまた重い物品を取り扱う必要も生じた。また対空脅威から部隊を広い海面に分散する必要も生まれた。このため補給艦の速力の増大、 補給所要時間の短縮のための補給装置の改善を必要とし、 従来のように商船を母体とした補助的補給艦ではなく、 最初から洋上補給を任務として計画された効率の良いものが望まれるようになった。

 朝鮮戦争の戦訓を受け衝撃を嫌うミサイルなどの高度の武器を短時間に移載するための高速移載装置FAST(Fast Automatic Shuttle Transfer)などが実用化された。 また、 短時間に広範に分散している部隊にドライ・カゴー(食糧・消耗品・部品など)を搭載能力の大きなヘリコプターで補給するヴァートレップ(Vertrep:Vertical Replenishmentの略)と呼ばれる立体的補給も開発された。また、 多種雑多な補給を少ない回数ですませるために従来の給油艦・給弾艦・給糧艦などの単能的補給艦に変えて、 受給艦が必要としている消耗品を1隻1回の補給作業で補給できるような多目的補給艦を生んだ。この要求から補給艦は高速化・大型化・多目的化し、 1964年から70年にかけてサクラメント(Sacramento)級補給艦(AOE-1)が出現した。 排水量5万2000トン、 巡航速力26ノット、 最高速力29ノットで、 燃料177.000バーレル、 弾薬など3500トン、 装備品800トンを搭載、 垂直補給用の大型ヘリコプターUH46シーナイト2機を搭載、 さらに対空防御用のポイント・デフェンス武器としてシースパローミサイル発射機のほかCIWS速射砲を装備するに至っている。

 このほか戦争様相の変化にともない陸海軍の作戦に境界がなくなり、 陸上投入兵力が必要とする兵器を平時から準備し紛争の生起が予想される地域の付近に展開する洋上事前集積船舶が必要となり、 1980年7月には急速統合展開舞台の創設があり、 12.500人の海兵旅団と戦術空軍の2週間分の装備品と戦闘資材を搭載した7隻の短期事前集積船NTPSがディエゴガルシアに展開されたが、 85年には16隻となり165.000トンの陸・空・海兵隊用の装備の補給船への事前搭載が完了し、 これら事前集積船が3個海兵旅団46000人分の装備品と30日分の補給物資を搭載しアメリカ東岸、 ワハイおよびディゴガルシアに展開された。 1991年のアメリカ国防計画によれば、 大規模な海外展開では海上輸送を95パーセントとし、 海上輸送の能力としては1航海100万トンを目標としている。 なお、 湾岸戦争ではインド洋のディエゴガルシアに事前に展開されていた第2洋上事前集積船団(第7海兵旅団用の装備)に兵員が乗り組みサウジアラビアに到着したのは9月初旬であったという。

 このような補給部隊に支えられ第七艦隊はアジアや中近東地域のあらゆる事態に即応戦力を投入する部隊として、 アメリカ国家の意志を示し、 アメリカ外交を支える力として展開されてきた。 朝鮮戦争では初めてジェット機を空母から運用し、 ベトナム戦争では単に航空機による空爆のみでなく、陸上支援射撃、 機雷戦、 対機雷戦、 哨戒・偵察から居留民や難民輸送に当たってきた。 この第7艦隊を支えて来たのが洋上補給部隊であったが、 この第七艦隊を支えるために、 どの程度の補給艦艇が展開されているのであろうか。 第七艦隊の兵力が作戦目的や戦局によって変化し、 また兵力構成、 特にロジスティックに当たる艦艇の詳細に関し公表されることはあまりない。 しかし、最大の兵力が集められたベトナム戦争中の1974年2月には空母6隻、 巡洋艦5隻、 駆逐艦・護衛艦50隻、 両用戦艦艇22隻など65隻の戦闘艦艇を支援したのは駆逐艦母艦、 給糧艦6隻、 給弾艦・工作艦8隻、 潜水艦母艦・防潜網敷設艦2隻、 潜水艦救難艦・艦隊タグボート5隻、 航洋サルベージ船3隻など36隻であった。

 一方、 フークランド紛争に際してイギリスが示した迅速な軍事力の展開は世界を感嘆させた。 1982年4月2日にフォークランド諸島がアルゼンチン軍に占領されると、イギリスは奪回するために陸軍・海兵隊合わせて2個旅団、 約1万人弱の陸上戦闘部隊と、 フォークランド周辺海域の制海権・制空権を獲得し、 上陸部隊を支援するため空母2隻、 潜水艦6隻、 駆逐艦・フリーゲート艦21隻、 強襲揚陸艦2隻など44隻の戦闘艦艇を展開し、 2ケ月あとの6月にはフォークランドを奪回した。 しかし、 この奪回作戦を支えたのはタンカー10隻、 艦隊給糧艦、 補給支援艦、 ヘリコプター支援艦、 揚陸艦、 サルベージ船など24隻、 民間から徴用された兵員輸送用のクイーン・エリザベス2世などの客船3隻を含むタンカー15隻、 RoRo貨物船8隻、 コンテナー船、 貨物船など45隻のロジスティクス艦艇であった。 また、 これらロジステイクス部隊によりホークランド海域に運ばれたのは装備品9万トン、 燃料40万トン、 ヘリコプターなどの航空機95機と3ケ月の食糧、 真水、弾薬などであった。 アルゼンチンの最大の誤算はイギリスの迅速な反撃であったが、 それは長大な海路を克服したイギリスの海洋ロジスティクスの能力に対する見積もりの下算であった。8000キロの長大な海路を克服して展開された海洋ロジスティツクがイギリスに勝利をもたらしたのであった。