キツネとタヌキ-日独同盟の虚構

はじめに

 日本は国際的孤立から脱却するため、ソ連を対象とした日独防共協定を締結したが、 それは独ソ不可侵条約で破られた。続いて日本はドイツの電撃的勝利に幻惑され、 さらにリッペントロップ特使の独ソ関係は良好であり日ソ交渉を支援するとの発言に期待し、 ソ連を含めた四ケ国同盟あるいは四ケ国協商によって外交的孤立を脱し、 強化された地位を利用して日米国交調整を行いつつ支那事変の解決を図ることを念願し、 独ソ不可侵条約の締結で苦杯をなめながら、 わずか1年後にアメリカ国民が「不倶戴天」の敵と憎む、 ヒットラーのドイツと三国同盟を締結した。しかし、 ドイツの突然の対ソ開戦で、 この期待は裏切られた。 すると日本は三国同盟推進者の松岡洋右外相を解任し、 条約の破棄(有名無実化)をも考慮しつつ対米交渉に入った。 このように防共協定から三国同盟、 そして第2次大戦への日独の動きは「互いに全く異なった目標を追及し、 同盟国にあるまじき奸計に満ちた明白な裏切り行為」を繰り返し、 日独両国は同盟国でありながらキツネとタヌキの騙し合いを重ねつつ第2次大戦へと破滅の道を歩んだのであった。 以下、 ヒットラ政権樹立から日本の真珠湾攻撃に至る「おらが国本位」の日独両国の虚構に満ちた国益追求の裏面史を覗いてみたい。

日独接近の背景

 1933(昭和8)年1月に政権の座についたヒツトラは、 3月には共産党を非合法化し、 10月には国際連盟を脱退、 翌35年にはベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言を行い、36年3月にはロカルノ条約を破棄してラインランドに進駐した。 これらの侵略行為から英仏との対立が深まったヒットラは、 1936年10月に独伊枢軸を形成し、 11月25日には日独防共協定を締結した。 さらに、 ヒットラは1937年11月5日の閣議で、 ドイツのレーベンスラウム(生存圏)を拡大するため、 近い将来ドイツが当面している領土問題を解決することを明らかにした。 これは世界が認めて来たベルサイユ体制の破壊であり、 第1次世界大戦の戦勝国イギリスやフランス、 そしてアメリカへの挑戦であった。 これによりイギリスやフランスとの関係悪化を恐れたナチス党外交顧問のリッペントロッは、 1938年1月2日にフランスとイギリスを牽制するために日独伊三国同盟の必要性をヒットラーに提言し、 1月初旬に新年のあいさつに訪れた駐独陸軍武官大島浩中将に対して日独同盟の締結を希望した。 そして、 リッペントロップが2月4日に正式に外相に就任すると、 経済界の反対を押し切ってドイツの親中国政策を改め5月12日には満州国を承認し、 21日には中国に派遣していた軍事顧問団を引き上げることを決定し、 日本との友好関係の強化を図った。

 一方、 日本は1931年9月に満州事変を起こし、翌32年3月には満州国の独立を宣言し、 33年2月24日の国際連盟の臨時総会で満州国不承認が42対1で否決されると、3月27日には国際連盟を脱退し、 34年にはワシントン海軍条約を破棄、 36年にロンドンは軍縮会議から脱会するなど国際的に孤立しつつあり、 さらに、 中国をめぐってアメリカとの対立も激化していた。 また、 極東情勢もソ連・中国を中心に大きく動いていた。 それまで長らく国際社会から隔離されていたソ連が1934年11月にアメリカに承認され、 イギリスが通商協定を締結し、 国際連盟が加入を認めるなど国際社会に認知されるに至った。 そして、 このような国際的な地位の向上や国内態勢の充実、 特に軍備の充実にともない、 ソ連は1932年には日ソ不可侵条約、 1933年には東支鉄道の日本への売却を提案し(1935年に譲渡)、1934年には満州国を承認し、 日米中ソ不可侵条約を締結すべきであるとさえアメリカに提案していたが、 国際的に認知され、 さらに第1次5カ年計画が完成し軍事力が充実されると、 対日政策を融和政策から強硬政策に変えた。 そして、 1936年2月には奉天総領事館を閉鎖し、 4月には駐日ソ連大使が在満白系ロシア人の反ソ行動について抗議し、 7月にモスクワで開いた第7回コミンテル大会において日独を世界プロレタリアの敵であると宣言し、 満州国に対する領空侵犯、 越境偵察行動や国境境界標識の満州側への移設など、 対日強硬姿勢が顕著となりソ連の脅威を強く感じるに至った。

 中国では満州事変、 上海事件などに伴い1935年1月には共産党が内戦の停止と抗日を呼びかけた「抗日のための全同胞に告げる書」を発表し、 国民党に救国抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ、 1936年12月に生じた西安事件(共産党が蒋介石を幽閉し強引に国共合体を合意させた)を経て1937年には抗日統一戦線が成立した。 1935年には国府・ソ連文化協定が、 1937年8月には中ソ不可侵条約が締結され、 9月には第2次国共合体があり国民党軍と人民解放軍の連携が強化され、 それまで問題視していなかった中国とソ連との同時2正面戦争の可能性さえ考えなければならない状況になった。 この対策は西方でソ連を牽制するドイツとの協力関係を強化するか、 中ソを分断するためソ連との協力関係を増進するか、 あるいは中国との連携を強化するかであった。 当時、 ドイツは軍事顧問を送って中国軍の近代化を援助し日本軍との戦闘を指導し、 それを足掛かりに貿易や投資を拡大させるなど、 中独間の政治経済関係は緊密であり、 日独防共協定を締結していたにも拘わらず、 ドイツは日本の重なる抗議にもこれら軍事援助を止めようとはしなかった。 そのうえ、 ドイツは英仏のソ連との連携交渉が暗礁に乗り上げると、 東西2正面作戦の不利を避けようとソ連にポーランド分割という餌を与え、 日独防共協定の対象国であるソ連と日本軍がノモンハンで苦戦中の1939年8月23日に独ソ不可条約を締結した。 この条約の成立が日本政府や軍部に与えた衝撃は大きく、 2日後の8月25日には日独同盟締結交渉の中止を閣議決定したが、 28日には平沼棋一郎総理が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を残して総辞職してしまった。

日独伊三国同盟の締結

 1939年9月1日にドイツ軍が各方面から一斉にポーランドに進攻し、 英仏両国はポーランドとの安全保障条約に基づき、 イギリスは9月1日に全軍に対する動員を下令し、 3日午前9時にはドイツに対する最後通牒を発し、 午後11時にチェンバレン首相はドイツと交戦状況にあることをラジオ放送した。 フランスもこの日の午後にはドイツに宣戦を布告し、 以後6ケ年にわたる第2次世界大戦の幕が切って落とされたのであった。 イギリス・フランスの対独宣戦布告は、 イギリスが介入することはないと考えていたヒットラには計算外であり、 ドイツ軍にイギリス軍やフランス軍を打倒する戦力がなかったために当惑した。 そこでヒットラは7月19日、 次いで10月6日と2回にわたり和平を提案した。 しかし、 イギリスもフランスも応じなかった。

 この当時の日本は防共協定の対象国であるソ連とノモンハンで戦っている最中に独ソ不可侵協定を結んだドイツに対する不信感が強く、 政府は直ちに「欧州戦争への不介入」を声明した。 しかし、 この欧州戦争不介入声明も翌1940年4月から始まったドイツ軍の西方攻勢作戦によって破られ、 ドイツ軍の西方戦線の快進撃が日本の運命を変えたのであった。ドイツ軍は4月9日にはデンマーク、 ノルウェーを急襲、 5月10日にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルグを撃破し、 5月29日にイギリス軍がダンケルクから撤退を始めると、 ふらついていたイタリアが6月10日に枢軸国側に立って参戦した。 6月14日にはドイツ軍がパリに入城し、 22日には独仏休戦協定がコンピェーニュの森で調印された。 この戦局の急速な変化に独ソ不可侵条約で一時高まった対独不信感が急速に薄れ、 ドイツ軍の電撃的勝利に目が眩んだ新聞は「有田外交転換期に立つ、 英米仏依存外交は失敗」「大転換必至の帝国外交」と、 米英関係の悪化を避けたいとする有田外交は激しく批判され、「バスニ乗り遅れるな」と国内にはドイツとの提携を望む声が急速に高まった。 そしてこの世論を背景に天皇が「私の味方として頼みにしていた」対米協調を求めていた米内内閣が陸軍の陰謀で成立僅か半年で倒されてしまった。 有田八郎外相に代わった松岡洋石外相はドイツの仲介によってソ連を加えた四ケ国同盟、 あるいは四ケ国協商によってアメリカに対して有利に交渉を行ないつつ支那事変の解決を図ることを意図した。

 一方のドイツはイギリス爆撃やイギリス上陸作戦が躓くと、 日本の海軍力に対米抑止とイギリス海軍力の極東への誘致を期待した。 そして日本の南進を誘うかのように、1940年5月には日本に仏領インドネシアに関して干渉しないことを申し出たが、 8月23日には日独連携強化問題を討議するためにスターマー特命大使を派遣したいと申し出てきた。 スターマー特使が来日すると松岡外相がイニシアティブをとり、 9月14日の連絡会議を三国同盟賛成に導き、 9月27日には日独伊三国同盟条約が締結された。 海軍の三国同盟反対は自動参戦義務の回避、 ドイツの技術援助や南洋群島の譲渡などの有利な条件、 四ケ国同盟に対する期待などによって弱められ賛成に変わった。 しかし、 これら条件はスターマー特使が本国に報告することなくオット大使と相談し独断的に決めたものであった。

日ソ中立条約の締結

 松岡外相は三国同盟締結の際にスターマーの独ソ関係は良好であり、 日ソ関係の強化にドイツが「正直な仲買人」を努める用意があるという言葉を真に受けて、 日ソ協商の斡旋をドイツに期待し、 1940年11月にベルリンで独ソ会談が開催されるとの通知を受けると、 日ソ交渉の斡旋を求める訓令を来栖三郎駐独大使に発し、 リッペントロップ外相もモロトフ外務人民委員と折衝した。 しかし、 ソ連の回答は四カ国協商への参加については同意はしたが、 フィンランドにおけるドイツの軍事活動の停止、 バルカンにおけるソ連の一般的利益の承認など到底ドイツ側が承認できるものではなかった。 このソ連の態度に、 ロシアをドイツの植民地とし、 ロシア人には高等教育は不要であり道路標識が読める程度の教育で良いとの人種的偏見を持っていたヒットラは激怒し、 ソ連との勢力範囲調停を断念し12月18日にソ連を攻撃するバルバロッサ作戦の準備を下令した。

  ドイツの斡旋に期待した日ソ交渉が頓挫すると、 松岡外相は自らドイツおよびソ連との交渉を行おうと、 1941年3月12日に訪独の旅に出た。 松岡外相は3月24日にモスクワでスターリン書記長とモロトフ外務人民委員と日ソ国交調整の瀬踏みをした後、 ドイツの盛大な歓迎を受けて3月26日にベルリンに到着した。 松岡外相を大歓迎したドイツの意図は、 ドイツの通信社の特派員で赤軍情報部のスパイであったゾルゲの裁判記録によれば、 第一に大掛かりな歓待をして松岡外相を「完全にドイツの味方にして仕舞ひ、 ドイツの政策に歩調を合わせるような気持を懷かせること。 第2は松岡外相をしてシンガポール攻撃の決意を持たせること。 第3は独ソ関係がもし険悪化した場合には日本をしてドイツの味方として立たせること」であった。 松岡外相は滞在中にリッペントロップ外相やヒットラ総統と会談したが、 この会談で明らかになったことは、 ドイツがもはや四国協商にも日ソ交渉の斡旋にも全く関心を示さなくなったことであり、 ドイツ側は新秩序建設の最大の敵はイギリスであり、 イギリス打倒が緊要である。 これには日本によるシンガポール攻略が最も効果的である。 シンガポールが日本軍に占領されればアメリカが艦隊を東洋に派遣する拠点を失い、 総ての問題が日本に有利に解決できるであろうとシンガポール攻略を要請した。

 モスクワにおける松岡外相とモロトフ外務人民委員との交渉は難航したが、 帰国直前の4月16日に至り、 スターリンの指示によりソ連側が突然に妥協し日ソ中立条約が締結された。 この条約にスターリンが応じたのは日本の南進政策を促進し、 日本とドイツによる東西2正面作戦の危機から脱することにあった。 一方、 陸軍の意図は参謀本部戦争指導班の「機密戦争日記」によれば、 南方武力解決の支えにもあらず、対米戦争回避にもあらず、 対ソ開戦までに軍備の充実を図る時間的得るためのものである、 「本意義ヲ戦争指導中枢部ハ的確ニ把握シアル要ス」と、 対ソ戦開始までの軍備充実の時間的余裕を得るためであり、 陸軍の明治以来のソ連処理という究極の目的は変わることはなかった。 しかし、 スターリンと松岡外相のモスクワ駅頭での別れの抱擁の写真が「電撃外交」と世界に一大センセーションを巻き起こし、 世界史の流れを変えてしまった。 それまでは、 ソ連のポーランド、 バルト3国の併合やフィンランド侵略などで反ソ姿勢を取っていたアメリカやイギリスの対ソ妥協を促し、米英ソ関係を急速に親密化させたのであった。

ドイツのシンガポール攻略要請

 第2次大戦に突入したドイツにとりアメリカの動向が最大の問題であったが、 アメリカがイギリスを明確に支援するようになり、 イタリヤがアフリカなどで敗北し、 さらに地中海に於ける制海権を喪失するなど戦況が不利となると、 1940年12月27日にドイツ海軍総司令部は現状を打開するため、 ヒットラに日本軍のシンガポール攻撃はインド、東アジア、 オーストラリアなどに動揺を与え、 イギリスの威信を低下させるがアメリカの参戦を招くことはないであろうとの意見具申を行った。 さらに、 海軍総司令部は翌1941年1月10日に、 「三国同盟と日本」との覚書をヒットラに提出し、 ドイツ国防軍最高司令部統帥局長ヨーデル上級大将も1月29日に日本が参戦しシンガポールを攻略するならば、 軍事上、経済上、また心理上決定的に重大な意義をもたらすであろうと報告した。 そして、 2月15日にはヒットラから「日本の参戦が早ければ早いほど軍事環境は楽になるので、 日本が積極的に出るよう誘導しなければならない。日本にアメリカが参戦した場合に備え、戦争継続のため資源地域を占領するように仕向けなければならない」との共同作戦に関する指針の起案が命ぜられた。

 ドイツではリッベントロップ外相は2月23日、 着任早々の駐独大使大島浩に戦争を早期に解決するためには日本の協力が必要であり、 日本は「自らの利益のためにも、 可及的速やかに参戦されたい。 決定的打撃はシンガポール攻撃であろう。 アメリカが参戦し艦隊をアジアに派遣するほど軽率ならば、 戦争を電撃的に終わらせる最大の好機となるであろう。 すべての仕事は日本艦隊が片付けると確信している」とシンガポール攻撃を要請した。 さらにリツベントロップ外相から「あらゆるの手段を用い可及的速やかに日本にシンガポールを攻撃させよ」との指示を受けたオット大使は、 3月4日に杉山参謀総長および近藤軍令部次長に各個に会談し、「ドイツの英本土上陸作戦の準備は完了し決行の時機は一に総裁の決定を待つばかりである。 この決戦時機に東西相応して日本がシンガポールを攻略するならば、 アメリカの戦争準備完了以前にイギリスが崩壊しアメリカが戦争に入ることはないであろう。 シンガポール攻略はドイツとして大いに感謝する所である」とシンガポール攻略を要請した。さらに3月5日にはヒットラからイギリスの極東における要衝、 シンガポールの奪取は3国の戦争遂行全体にとって決定的な成果を意味するとの総統指示第24号「日本との協力について」が下達された。

三国同盟に対する日本の対応

 一方、 松岡外相のヨーロッパ訪問と前後して民間チャンネルによる日米和平交渉が進展していた。 1940年11月末にアメリカのカソリック海外伝導協会会長ウォールシュ司教とドラウト神父が来日し、 日米交渉はアメリカ側のイニシアティで開始されたが、 これを受け日本も1941年2月27日には、 産業組合中央金庫理事で近衛新体制推進グループと密接な井川忠雄をアメリカに派遣した。 そして、 3月8日には井川とウォーカーの斡旋で、 ローズヴェルト大統領とも親交があり、 親米派ということから駐米大使に起用された野村吉三郎海軍大将とハル国務長官との会談となり、 4月14日・16日の両日の野村ハル会談を経て「日米諒解案」と呼ばれる草案が完成した。 しかし、 この交渉でアメリカから三国同盟に関してアメリカがドイツと戦争となった場合でも、 日本がドイツ側に立って参戦しないことを求められ、 さらにオーラルステートメントで「不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者の中には国家社会主義国家ドイツの征服政策を支持しているものがいる」と松岡外相が忌避されると、 松岡外相を追放するために近衛総理は総辞職を行い、 再び海軍から知米派の豊田貞次郎海軍大将を外相に迎え、 日本は新たな外交指導者の下で三国同盟破棄をも考慮して対米協調外交を推進したのであった。

 しかし、 世界の動きはさらに急速であった。 ドイツが1年前に締結した独ソ友好条約を突然に破って、 1941年6月にソ連を攻撃したのである。 そして、 対ソ戦に踏み切ったドイツは日本の進路を南進から北進へ変へようと、 オット大使以下の館員はさまざまな策動を行った。クレッチマー陸軍武官はソ連極東軍の多数が西部戦線に送られ、 ロシア軍捕虜の中にはシベリア部隊所属のものがいるとの情報を流した。またオット大使は空軍武官補佐官ネーミック少佐に、 極東ソ連には日本を空襲できる新鋭航空機は50機程度しか存在しないとの文書を書かせ、 それを松岡外相に手交したという。

 一方、 独ソ戦が始まると陸軍部内は陸軍省軍務課長佐藤賢了大佐を中心とする北方の脅威が解消したこの機会に「断固南方に武力進出すべし」の南進派、 柿が熟して落ちるのを待つように好機を待つべきであるとの熟柿北進派、 参謀本部第1部長田中新一中将を中心とした好機を「作為捕捉シテ武力ヲ行使」する作為北進派、 参謀本部戦争指導班を中心とする将来に備え南北いずれの行動にも備える戦力を強化すべきであるとの南北準備陣派と議論が分裂した。 しかし、 米英、 そしてソ連が動けないと判断した日本は6月25日の政府大本営連絡会議で「南方施策促進ニ関スル件」を決定し、 7月2日の御前会議で「好機南進、 戦備促進、 独伊との結束強化と対ソ国交調整」を骨子とする「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決し、 7月28日にはドイツの要請とは正反対の南仏印に進駐してしまった。 一方、 ドイツ陸軍を過信する陸軍は独ソ戦の推移が極めて有利に進展し、 極東ソ連軍が減少する情勢に至ったならば、 9月初頭の武力介入を目途に関東軍を増強する関東軍特殊動員演習ー「関特演」を実施し、 総兵力約70万、 馬匹14万頭、 航空機600機を満州に展開した。しかし、 これほど盛り上がった対ソ戦争も南部仏印進駐にともなうアメリカの日本資産の凍結や対日石油輸出全面禁止令の発布などの強硬な態度、 ドイツ軍の攻勢鈍化や在極東ソ連軍の西送が少ないことなどから短期間に影をひそめ、 9月には年内ソ連の処理を断念した。

おわりに
 平沼騎一郎は「欧州の天地は複雑怪奇」なりとの名せりふを残して総辞職してしまったが、 当時の世界情勢は全く複雑怪奇であった。 また、 日独防共協定から真珠湾攻撃までの日独の対応はキツネとタヌキの騙し合いであった。 しかし、 騙し合いは日独だけではなかった。 ソ連はポーランドをドイツと分割し、 因縁を付けてフィンランドに侵入し、 謀略を用いてバルト三国を併合したし、 ソ連とドイツとの同盟交渉が決裂したのはオーストリア・ルーマイニア・チェコなどの領土分割をめぐってドイツと対立したためであった。 また、 ムッソリーニはドイツのベルサイユ条約破棄・再軍備宣言に、 1935年1月にはドイツに対してフランスと共に戦うことに合意してローマ協定を締結し、 4月には英仏首脳との会談(ストレーザ会談)で、 ドイツの侵略には武力をもって抵抗することを協定したが、 この協定は6月にドイツの海軍の兵力を36パーセントに押さえるというイギリスの自国の利益だけを考えた英独海軍協定で無効になってしまった。 ドイツに歯止めを掛けたつもりのこの海軍協定が、 ほとんど海軍力を持たなかったドイツに海軍力の再建を許し、 潜水艦の建造さえ認めたのである。 その後のイタリアはスペインの内乱援助やエチオピア侵略などからドイツに傾斜し、 1938年11月には日独伊三国防共協定に加入し、 翌1939年5月には日本に先駆けて独伊軍事同盟を締結し、 さらにドイツの快進撃が続くと1941年6月には英仏に対して宣戦を布告した。 しかし、 戦局が枢軸国に不利となった1943年9月には連合国に降伏、 その2週間後には日独に対して宣戦を布告し、 第2次大戦後に創設された国際連合では戦勝国に列せられている。 蒋介石も共産党が勢力を増大し毛沢東の率いる第八路軍を攻撃中は、 ソ連を警戒し1936年9月には日華提携を申し出ていたが、 国共合体後は急速にソ連に傾斜し、 1937年8月には中ソ不可侵協定を締結した。 しかし、 ソ連から中国への武器弾薬などの援助は低調であった。 これはソ連が日中を長期間戦わせることに依って日本の対ソ軍備の充実を遅らせ、 中国共産党を伸張させようと意図したためであった。 これが国際政治というものであり、 ポーランドやバルト3国の例を挙げるまでもなく、 国際連盟も同盟国も、 国際世論も正義も全く武力の前には無力であった。 国際関係は決して甘いものではないというこの冷酷な事実を、 われわれは認識しておく必要があるのではないであろうか。