日本海軍の艦隊決戦思想
ー大艦巨砲で築きあげた連合艦隊盛衰記


はじめに

 連合艦隊とは艦隊が2個以上で構成され、第1艦隊が主力艦中心の戦艦部隊、第2艦隊が巡洋戦艦や巡洋艦で編成され、この編成は太平洋戦争中も変わらなかった。また、艦隊とは、戦艦戦隊や巡洋艦戦隊、水雷戦隊、航空戦隊に補給艦などの支援艦艇を加えた部隊の呼称である。戦隊とは戦艦・巡洋艦2隻から4隻、水雷戦隊は巡洋艦1隻と駆逐隊2隊から4隊、潜水艦戦隊は潜水母艦と潜水隊2隊以上、航空戦隊は航空母艦2隻以上で編成されていた。艦隊という名称の部隊が最初に編成されたのは、1872(明治5)年5月で中艦隊と呼ばれたが、翌1873年8月には大艦隊・中艦隊・小艦隊と艦艇の大きさで3つの艦隊が編成された。1884年には2つ以上の艦隊で連合艦隊を編成することが定められ、1889年7月には艦隊条例が制定され、常備艦隊と西海艦隊で連合艦隊が編成された。これは清国との緊張が高まったためであった。この連合艦隊は常備艦隊と西海艦隊から編成されていたが、常備艦隊には松島・橋立などの三景艦(4215トン)3隻と大型砲艦などの本隊と、吉野・浪速などの巡洋艦の遊撃隊、通報艦の8重山と水雷艇5隻で編成され、西海艦隊は2000トン以下の小型低速の旧式スループ艦の大和や武蔵、砲艦、愛宕や鳥海など9隻で編成された。

 次いで連合艦隊が編成されたのは日露戦争が迫った1903年10月であつたが、戦争が終わると解体された。このように艦隊は有事に編成されていたが、1923年以降は毎年度のはじめに、一部の艦艇で常続的に編成していた。しかし、1935年5月20日以降は「連合艦隊ヲ常設トナス」と常設的組織となった。その後、連合艦隊には1928年に航空戦隊、1940年には潜水艦部隊の第5艦隊と空母部隊の第1航空艦隊が、1941年には陸上航空部隊の第11艦隊が加えられ太平洋戦争を迎えた。以下、この連合艦隊を中心に日本海軍の艦隊決戦思想について考えてみたい。

日清・日露戦争期の艦隊決戦思想

 連合艦隊の最初の艦隊決戦は、1894年9月に清国海軍との間で戦われた黄海の海戦であった。日本海軍は常備艦隊の本隊(松島・橋立・厳島の3隻)、 第1遊撃隊(吉野、高千穂、千代田、秋津州、浪速の巡洋艦5隻)、扶桑・比叡の2隻コルベット艦と砲艦赤城、仮装巡洋艦西京丸の12隻であり、清国海軍は定遠・鎮遠、来遠、経遠の4隻の戦艦と、齋遠、靖遠、致遠など7隻の巡洋艦、平遠、鎮南など3隻の砲艦の14隻であった。清国の主力は30センチ砲4門搭載の鎮遠、定遠(排水量7220トン)などで、21センチ以上の大口径砲を21門装備していた。しかし、日本艦隊は11門、三景艦搭載の32センチ砲は各艦1門で、しかも前方に発射すると艦首を振り回し、主砲を左舷に向けると船体が左舷に傾斜する品物であった。しかし、日本海軍は小口径ではあったが速射砲を装備し、小口径砲では清国の141門に対し209門を装備し、速力や運動性を重視して衝角を装備していなかつた。

 清国海軍は1855年のリッサの海戦の先駆に従い衝角戦法をとり、定遠・鎮遠を中央に左右に巡洋艦を配備した鳥翼型の横陣で迫ってきた。一方、戦艦を保有せず主砲に劣る日本艦隊は、副砲を活用しようと舷側砲火に期待し単縦列であった。列国海軍は世界最初の汽力航走の近代的軍艦による海戦、大口径主砲と小口径の速射砲、衝角と砲力、有効な射撃を発揮するための陣形運動や速力、砲戦能力(砲の口径や射撃速度、命中率)などに注目した。海戦は5時間に及び日本海軍が勝利を得たが、低速のために主隊から遅れた比叡や赤城は集中砲火を浴び、さらに旗艦の松島には清国の30センチ主砲弾が命中し多数の戦死者を出すなどの被害はあったが、日本艦隊は優速を利用し、常に舷側砲火の集中威力を発揮し、清国艦隊の経遠など3隻を撃沈し、揚威など2隻を座礁させ、清国艦隊に「目下の所、直ちに巡航し得るもの1隻もなし」の損害を与えた。

 次の艦隊決戦は黄海の海戦の10年後に、日露海軍間に生起した日本海海戦であった。1905年5月27日早朝、バルチック艦隊発見の報告を受けると、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将は、直ちに鎮海湾を出港し、海戦は東郷ターンと呼ばれる敵前直角回頭で始まった。このため戦艦の主砲によって勝利が決したとうイメージが強いが、戦闘経過を詳細に見ると、巡洋艦部隊の第3・第4・第5戦隊、海防艦部隊の第5・第7戦隊、それに5隊の駆逐隊や7隊の水雷艇の働きが目覚ましく、これらの部隊が戦艦部隊の砲撃戦に引き続いて波状的な攻撃を加え、バルチック艦隊を徐々に殲滅したのであった。これほど大中小の各種艦艇が組織的に運用され、勝利を飾った海戦は世界史に類を見ないのではないか。この海戦でバルチック艦隊は戦艦8隻を含み19隻が撃沈され、 戦艦2隻を含め5隻が拿捕され、沈没を免れた艦艇も中立港で武装解除され、目的地のウラジオストークに着いたのは巡洋艦2隻、駆逐艦1隻のみであった。これに対して日本側の損害は水雷艇3隻だけであった。海戦史上に類のない完全勝利であり、この海戦の敗北がロシアを講和会議のテーブルに着かせるなど、日本海海戦は日露戦争の趨勢を大きく変えた海戦であった。しかし、アルゼンチンの観戦武官ガルシア大佐(のちの大将・海軍大臣)は「トラファルガーの勝利はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」と、日本海海戦の勝利を世界史的な視点で評価している。

第一次世界大戦後の艦隊決戦思想―目標は戦艦

 日露戦争2年後の1907年(明治40年)に「帝国国防方針」が裁可され、米国が仮想敵国とされた。しかし、当時は駆逐艦は小型で耐洋性に欠け、 潜水艦も幼稚で補助兵力として期待できなかったことから、長途来航し疲労した米国艦隊をバルチック艦隊と同様に、 戦艦・巡洋艦部隊などが日本近海に迎え撃ち、主力艦部隊の砲戦により雌雄を決するという艦隊決戦を計画していた。次いで10年後の1915年に、北海で英独海軍の主力艦54隻が戦ったジュットランド海戦が起こった。参加艦艇は英国艦隊が戦艦28隻、巡洋戦艦9隻、巡洋艦34隻など150隻、ドイツ艦隊が戦艦22隻、巡洋戦艦5隻、巡洋艦11隻など88隻であった。戦闘は昼間戦から夜戦まで2日にわたる長時間の戦いとなったが、沈没艦艇は全参加艦艇の1割程度、損害は勝者といわれた英国海軍の方が多く、勝敗も不明確な海戦であった。

 第一次世界大戦では科学技術の発達から潜水艦、飛行機が海上兵力に加わり、艦隊も多様な艦種から構成されるようになった。しかし、列国海軍が第一次世界大戦で得た戦訓は、「弩級艦は依然として海戦の大勢を決する最大要素であり、海軍兵力の基幹である」という戦艦中心主義であり、 「巡洋戦艦の価値倍々大なり」、防禦力が弱いとの一部論者の杞憂を一掃し、今や用兵上に欠くことのできない艦種となった」との大艦巨砲への信望であった。そして、日本海軍も「各国相競フテ高速ノ巨艦ヲ実現シツツアリ」と、1917年には戦艦8隻、巡洋艦4隻の84艦隊、1918年には85艦隊、1920年には88艦隊予算案を通過させ、1927年には戦艦8隻、 巡洋戦艦8隻、 巡洋艦22隻、 駆逐艦75隻、 潜水艦80隻の理想的な88艦隊を見る予定であった。

 この当時、海戦の目的を英国海軍は「敵艦隊さえ撃滅すれば通商破壊も敵の植民地の争奪も意のままであり、艦隊の任務は敵艦隊の撃滅にある」と、「敵艦隊の撃滅」を主目的としていた。また、戦略家マハン大佐も「敵艦隊を他の総てに勝る最高の目標とすることが海軍作戦の健全な原則であり、通商破壊戦争だけで敵を打破できると考えるのは、 多分に幻想、 最も危険な妄想である」と戒めていた。
これに対して英国海軍より劣勢なフランス海軍は、巡洋艦による通商破壊戦を重視し、「艦隊の攻撃目標は敵艦隊ではなく敵の通商である」と、海上交通の破壊という巡洋艦戦を重視し、商船の撃沈を主目標としていた。しかし、日本海軍は英米海軍と同じく、「我海軍ノ目的ハ敵艦隊ヲ撃破スルニアリ」 。敵艦隊さえ撃滅すれば「如何ナル問題ヲモ我ガ意ノ如ク之ヲ料理シ得ヘシ」、 「要スルニ戦争ノ目的ハ敵艦隊ノ撃滅ニアリ」、また、「目標ハ敵艦隊ノ主力ニアリ」としていた。

新戦略―邀撃漸減作戦と新しい連合艦隊

 ワシント海軍軍縮会議で主力艦の保有比率を5・5・3の劣勢に押えられると、日本海軍は兵力の不足を補うために新しい戦法を開発しなければならなかった。それが1922年以降慣例となった邀撃漸減作戦であった。 この邀撃漸減作戦は東洋所在の米国艦隊を開戦初頭に撃破し、 フィリピン・グアムを攻略後は、 太平洋を横断して来攻する米国艦隊を逐次撃破して漸減に努め、 最後は機をみて主力部隊の決戦により撃破するという作戦で、太平洋戦争開戦時には、この作戦は次の3段階から構成されていた。

  1 潜水艦部隊を米国艦隊の所在地(ハワイ)に派遣し、 動静を監視し出撃した場合には追跡触接し、 動     静を明らかにするとともに反復襲撃し漸減する。
  2 基地航空部隊を旧日本統治の南洋群島に展開し、陸上航空部隊と母艦航空部隊が協力して攻撃し、     さらに敵艦隊を減殺する。
  3 敵艦隊が決戦場に到着したならば、高速戦艦に護衛された水雷戦隊が夜間の魚雷攻撃 を決行し、敵    艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行う。 

 この邀撃漸減作戦が計画された当初は、航空機の性能も低く、 航空兵力への期待は偵察や前路警戒、弾着観測程度であった。しかし、その後に航空機の性能が向上し、1930年代中期に入ると征空権を獲得し、 味方観測機の弾着観測下に有利な態勢で主力部隊の砲戦を行う「航空優勢下の艦隊決戦」思想へと変化した。さらに、1937年1月には南洋委任統治領の軍事利用を制限していたワシントン条約が失効すると、 南洋諸島が陸上攻撃機の前進基地として対米戦略上からにわかに脚光をあび、南洋群島に大型飛行艇や陸上攻撃機などを展開し、航空機による敵艦隊主力の捕捉、 航空撃滅戦、 航空機を加えた艦隊決戦など、航空機の有効性が急速に認められ、1940年には「海戦要務令続編(航空戦の部)草案」が起案された。
 しかし、日本海軍の伝統的な戦艦重視思想は変わらず、潜水艦部隊も航空部隊も艦隊決戦の補助兵力とされたままであった。とはいえ、1941年1月には基地航空部隊で第十1航空艦隊を、4月には空母8隻と駆逐隊で4ケ航空戦隊で第1航空艦隊を編成し、不完全ではあったが陸上および海上機動航空部隊を創設し、太平洋戦争の開戦時には10隻の空母を保有する世界最大の空母大国になっていた。開戦劈頭の空母機動部隊のハワイ奇襲で戦艦を撃破し、豪州のポートダウイン、セイロンを襲い、さらにインド洋で英国極東艦隊の空母や巡洋艦を撃沈するなど、海上航空部隊は半年で地球を半周し、世界は空母機動部隊の絶大な機動力と破壊力に驚嘆した。1方、陸上航空部隊も行動中の戦艦プリンス・オブ・ウエルス、レパルスをマレー沖で撃沈するなど、航空部隊が太平洋戦争の緒戦を飾った。

第二次世界大戦中の艦隊決戦
ミッドウェー海戦

 太平洋戦争中の3大艦隊決戦を選ぶならば、作戦海域の広大さや参加兵力の規模、その後の戦争に与えた影響などから、ミッドウェー海戦、「あ」号作戦、捷号作戦ではないであろうか。ミッドウエー海戦は北はアリューシャン列島から南はミッドウエー島までの海域に、戦艦大和など戦艦11隻、空母8隻、大小艦艇約350隻、航空機約1000機以上を投入した日本海軍の全兵力を投入した作戦であった。海戦は1942年5月5日から5日に行われたが、一瞬の隙に急降下爆撃機30機の襲撃を受け、歴戦の空母赤城、加賀、蒼龍が被弾した。残された飛龍がホーネットを攻撃し、続いて潜水艦が止めを刺したが、飛龍も被弾して沈没した。損害は数的には空母4隻と巡洋艦1隻であり、日本海軍には修理中の翔鶴・瑞鶴と、艤装を完了した中型空母飛龍・隼龍があり、隻数では米海軍と互角以上に戦える空母を保有していた。しかし、問題はこの海戦で100名以上の熟練のパイロットを1挙に失い、短期間に補充できないことであった。この敗北でサモア・フィジー侵攻作戦は取りやめられ、秋に計画されていたハワイ攻撃作戦も中止された。歴史家のリデル・ハート(英国)は「世界の海戦史上、最も急激で驚くべき運命の転換をもたらした海戦であった」と書いているが、この敗北が日本の敗北の序曲となった。また、ロスキル大佐(英国)のミッドウェー海戦は「海軍戦術の革命をもたらした海戦であり、空母戦が決定的威力を持っていることを証明した作戦であった」との言葉を借りるまでもなく、海戦の主兵が空母に変わったことを示した海戦でもあった。
 
「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)

 ミッドウェー、 ガダルカナルをめぐる航空消耗戦で、練達のパイロットの大半を失った日本海軍は、 1943年9月には「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を採択し、攻勢作戦から守勢作戦に転じた。日本海軍はマリアナやカロリン諸島の島々に多数の飛行場を建設し、これら「基地航空部隊を以て彼我機動部隊の決戦前、 尠くとも敵母艦兵力の3分の1を撃破する」ことを目途とし、海戦までに1544機を展開した。狭い珊瑚礁に造られた飛行場で駐機できる航空機の機数に制限があったため、各島嶼の航空機を必要な方面に機動運用して対処する計画であった。しかし、100海里から300海里も離れた島嶼に分散する航空機を集中するのには、 早期警戒体制と優れた指揮通信組織が必要であったが、 日本海軍にそのような組織的な航空機の運用体制はなかった。 このため、 迎撃機を上回る優勢な航空兵力を集中できる機動部隊に、 ヒツト・エン・ドランの急襲を受け各個に撃破され、「あ」号作戦が発動された時点には200機程度しか残っていなかった。 一方、連合艦隊は基地航空部隊とは別に、空母9隻(大型3隻、中型2隻、小型4隻)、 母艦航空兵力439機を展開した。日本の航空機は航続距離が長く、哨戒機で米国海軍機の325〜350海里に対して550海里、 攻撃機は米国の200海里に対して300海里の航続距離があり、日本海軍は米国海軍を航続距離で100海里アウト・レンジできる利点があった。

 「あ」号作戦は日本海軍が長年の研究と訓練を通じて開発し、 改良して来た邀撃漸減作戦を初めて適用し、アウト・レンジ戦法で戦った海戦であった。連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将によれば、「綿密を極めた計画」であり、 また戦局においても「敵に先んじて敵を発見している。 攻撃隊は勢い立って全部出て行った。 正にベスト・コンディションである。 今や何の心配することもない。 へこたれたといっても、 まだ角田部隊(陸上航空部隊)はいるし、 それこそ祝杯でも挙げようかというくらいまでに勝利を信じていた」作戦の開始であった。 しかし、空母を飛び立った母艦機の多くが目標までの距離が遠いことや、技量未熟から米国機動部隊を発見できなかった。そのうえ、多くが米国艦隊の上空に達する前にレーダーで探知され、「マリアナ沖の七面鳥狩」と揶揄されるほど迎撃戦闘機の餌食となった。また、かろうじて米国艦隊上空に達した母艦機も、近接信管を装備した対空砲火に打ち落とされ、殆ど被害を与えることなく海中に消えた。海戦の損害は空母3隻と油送船2隻だけであったが、「あ」号作戦を含む一連の海戦で、日本海軍は1283機、搭乗員1528名を失い、近代的な艦隊としての機能を喪失し、以後、合理的な作戦を計画することは不可能となった。この敗因としては、機密漏洩や、ビアク作戦に幻惑され作戦の発動方向を誤ったこと、基地航空部隊と艦隊航空部隊との連携の欠如、 米国海軍のレーダーと航空管制、 VT近接信管、 米国潜水艦の活躍などが考えられる。しかし、連合艦隊の航空参謀であった源田実中佐は、作戦「計画そのものは殆ど非難すべきものは無いのであるが、 その裏付けとなる部隊の練度は開戦初期に比べ問題とならないほど低いものであった」と述べ、 マリアナ沖海戦の敗因を搭乗員の訓練不足、基地施設の不備、 アウト・レンジの遠距離攻撃などをあげている。しかし、このアウトレンジ戦法は一度失うと、再建することが困難なウォー・ポテンシャルの低い国家の海軍の宿命的発想から生まれた戦法でもあった。

捷一号作戦(レイテ沖海戦)

 1943年12月17日に第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将から、 「あ」号作戦の戦訓から、戦艦を空母の対空護衛用として機動部隊に編入すべきであるとの「海上機動兵力戦時編制の改正に関する意見具申」が提出された。そして、1944年3月1日には戦艦大和や武蔵も空母の護衛部隊として、機動部隊指揮官の指揮下に編入され、 ここに初めて空母部隊が機動部隊の中核とされた。 これにより、第1機動部隊は水上部隊の第2艦隊と空母部隊の第3艦隊とで編成され、 戦艦部隊の第2艦隊には第1戦隊の長門・大和・武蔵、 第3戦隊の金剛・榛名が配属され、 扶桑・山城、 それに空母に改造中の日向・伊勢が連合艦隊付属とされ、 この改編で戦艦部隊が第1艦隊から去り第1艦隊は消滅した。連合艦隊の旗艦も大和から巡洋艦大淀に移され、 ここに戦艦の時代は終わりを告げ、空母部隊が連合艦隊の主役となった。
 しかし、マリアナ沖海戦で母艦パイロットの78パーセントを失い、 以後は合理的な作戦は立案できず、残された戦法は特攻的作戦しかなかった。日本海軍はレイテ沖海戦に空母4隻、戦艦9隻、重巡12隻、軽巡5隻、駆逐艦31隻、潜水艦13隻、計75隻と残存艦艇の総力を結集し決戦に臨んだ。しかし、決戦の中心的兵力である空母4隻に搭載されていた航空機が100機程度、これは水上部隊の特攻作戦であった。そして、連合艦隊は空母4隻、戦艦3隻、重巡5隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻、潜水艦5隻、合計30隻を失い名実共に崩壊した。米国の戦史研究家カーリング大佐は「日本海軍は戦意以外のあらゆるものを失った」と書いているが、日本海軍は残された「戦意」で特攻作戦を始めた。ハワイで世界を感嘆させた航空部隊が、特攻攻撃という世界に類のない戦法で帝国海軍の落日を飾ったのであった。

短期艦隊決戦主義と連続決戦主義

 戦略的にも戦術的にも早期決戦、速戦即決しかできない海軍が、 ドイツの勝利に期待し邀撃漸減作戦の自信から艦隊決戦で5分以上の打撃を与えるならば、 米国といえども艦隊再建に2ケ年を要するであろう。 そこで敵海上勢力撃破後は、 もっぱら防衛態勢を強化し、 一層有利な邀撃態勢を確立し、 邀撃作戦を繰り返して西太平洋の制海権を維持し、 ドイツの勝利まで南方要地を占領し、資源を確保し持久することで陸海軍は合意した。 しかし、 彼我の保有兵力、 国力、 生産能力などの絶対的優位を知る海軍が、最も恐れたのが長期消耗戦となることであった。そこで、海軍は局地戦や部分作戦を回避し、「決戦ハ戦闘ノ本領ナリ 戦闘ハ常ニ決戦ニ依ルベミモノトス」と、「艦隊全力決戦」の短期決戦主義で対応するしかなかった。この対策は膨大な工業力を持つ米国の動員完了前に、 戦争目的を達成する「速戦即決」の決戦しかなかったのである。 この短期決戦主義は1923年の国防方針・用兵綱領などでは、 単に「攻勢作戦ヲ以テ敵ヲ帝国ノ領土外ニ撃破シ、戦争ノ局ヲ結フニ在リ」、 「先制ノ利ヲ占メ攻勢ヲ取ルヲ本領トス」としていた。しかし、日米の緊張が高まり、日米戦争が身近になった1935年の国防方針や用兵綱領の改定では、「特ニ即戦即決ヲ図ルノ意ヲ明ラカニ致シマシタ」と、 「機先ヲ制シテ速ニ戦争ノ目的ヲ達成スルニ在リ」、 「攻勢ヲ取リ速戦即決ヲ図ルヲ以テ本領トス」と速戦即決の艦隊決戦が強調されていた。

 そして、山本長官は劣勢海軍が守勢をとり受けて立っては勝算はない。 日本海軍伝統の邀撃漸減作戦は主導権が敵の手中にあり、 受け身にならざるを得ない。敵を待ち受けるため戦力が分散する不利を生む。従って開戦初動において主導権を握り、「次々ニタタイテ行カナケレバ 如何シテ長期戦ガ出来ヨウカ 常ニ敵ノ痛イ所ニ向ッテ猛烈ナル攻撃ヲ加ヘネバナラヌ。 然ラザレバ不敗ノ態勢ナドハ持ツコトハ出来ヌ」と、連続的攻勢作戦を推進しガダルカナルまで進出した。 それは初動に敵艦隊に一撃を加え、 その後に出動してくる艦隊を個々に捕捉し、その立ち上がりを抑制しなければ、 国力に劣る日本は日を経るに従い不利となるという考えに基づくものであった。

 この山本元帥の早期艦隊決戦を強制しようという連続攻撃主義が、 不十分な準備でのミドウェー海戦となり、日本から遠く離れたガダルカナル争奪戦となって兵力を消耗したと戦後に批判されている。しかし、 これは山本長官だけではなく、 山本長官の後を継いだ古賀峰一長官も海上兵力比は対米2分1 航空兵力もラバウルの戦いで壊滅し、勝算は3分と言われながら、 米艦隊出現の報にマーシャル方面に2回も出動するなど攻勢作戦を展開した。 それは1942年中ならば勝算5分、 1943年初期を限界として勝算は3分に低落する日米の戦時動員能力n格差にあった。 それは米国艦隊が来襲しなければ、日本海軍は日時の経過に従って、 「兵力に県隔を来し、 ますます勝算は低下」し、 日本海軍には「どんなに遅れても1943年初期までに全力決戦によって米艦隊に一大打撃を与えておくことが戦略上絶対に必要であった」のである。 そのため、山本長官は米国艦隊の「来攻を強要」するために、 「来るまで待とう」の邀撃漸減作戦を捨て決戦を急いだ。 速戦即決の戦争しかできない国力が、 「来るまで待とう」の邀撃漸減作戦から「来させよう」への積極作戦となり、 ミッドウェーとなりガダルカナルとなったのであった。

航空主兵か戦艦主兵かの論議

 1934年頃から航空機で戦艦を撃沈できる。戦艦と航空機では攻撃範囲が比較にならず、航空機の方が攻撃の機会も格段に大きい。戦艦は航空機の行動圏内を行動できないので不要であるとの航空主兵論が、海軍大学の山県正郷大佐、加来止男中佐横須賀航空隊の三輪義男少佐、連合艦隊の小園安名少佐などから唱えられた。1935年には別所明朋少将から長距離爆撃機を主力とする数個の航空戦隊を編成するならば、島国日本の国防は完全であるとの独立航空戦隊案が海軍部内の雑誌に掲載された。この頃には海軍航空本部教育部長の大西滝次郎大佐を中心に「空中兵力威力研究会」が開かれ、1937年7月には航空本部から南洋群島への航空基地の建設は、 「実ニ帝国ニ恵マレタル地形上ノ最善ノ利用方法ニシテ海軍戦略思想ノ一大革命ナリ」、「近キ将来ニ於テ艦艇ヲ主体トスル艦隊(空母等随伴航空兵力ヲ含ム)ハ、基地大型飛行機ヨリナル優秀ナル航空兵力ニ威力圏内(半径千浬)ニ於テ、制海権保障ノ権力タルヲ得ス」であるとの「航空軍備ニ関スル研究」が提出された。

 さらに1941年1月には、次期海軍軍備計画(○5計画)案の軍令部説明を受けた海軍航空本部長井上成美中将から、軍令部案は明治の頭で昭和の軍備を行なわんとするものであり、何等新味も特徴もない。航空機と潜水艦の発達により「米ノ主力艦ノ如キハ西太平洋ニ出現スルヲ得ズ」。 艦隊決戦などは「米艦隊長官ガ非常ニ無知無謀ナラザル限リ生起ノ公算ナシ」。旧時代の海戦思では「何事モ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ」と、航空軍備、特に陸上航空軍備を重視すべきであるとの「新軍備計画論」が提出された。大西大佐の航空重視に対して、当時の軍令部第1課長の福富繁少将は、頭から戦艦を無視する大西大佐の主張は、「世界の兵術思想」からみても、当時は「戦艦も必要であり、航空機も必要の二重論をとらざるを得ず、戦艦は予定とおり建造し、航空機の整備には改めて努力をそそぐべきだ」と反論したが、これは1935年当時の判断としては間違っていないと信じている。しかし、それから5年後の軍令部第1部長の時には、大和型の第3番艦の信濃以降の建造は中止したと回想している。そして、信濃は空母に改装されたが、日本海軍は大艦巨砲主義から脱することができなかったとする批判は続いている。

 しかし、源田実中佐は「航空主兵論に対する対応は、何も日本海軍のみが誤ったわけでなく、列国いずれも間違った判断処置をした。日本海軍などは、まだ、処置の速かった方である」と述べているとおり、米国海軍も同様であった。米国海軍は戦艦1隻分の火力を航空機で運ぶなら900機が必要であり、戦艦15隻分の火力を運ぶならば1万35○○機が必要である。一方、費用は戦艦ならば15隻7億5○○○万ドルで済むが、航空機で戦艦15隻分の火力を運ぶとすれば、空母45隻と航空機3375機が必要で、その費用は48億5○○○万ドルとなり、戦艦の方が経済的であると航空兵力の増強を軽視していた。このため米国海軍は、太平洋戦争開戦時には日本海軍の戦艦11隻に対して、17隻を保有していたが、空母は日本の1○隻(1隻は特設空春目丸)に対して、8隻(制式空母7隻と、商船改造の護衛空母ロングアイランド)しか保有していなかった。また、アメリカ海軍は日本海軍がハワイ・マレー沖で戦艦を撃沈するなど航空機の威力を示した後も、戦艦の建造を継続し、戦争中にサウス・ダコダ型4隻、アイオア型5隻(2隻は終戦で中止)、アラスカ型2隻(終戦で中止)など12隻の戦艦を造り続けた。また、英国海軍も戦争が終わった1年後にヴァンガートを、フランスは4年後の1949年にジャン・バールを完成させている。