戦艦戦術 基礎講座 日本海軍の戦艦運用思想の変遷
日露戦争期の戦艦の運用思想
はじめに
帆船海軍時代の軍艦の分類は大砲の搭載数で200門戦列艦、 300門戦列艦などと呼称されていたが、これら旧来の帆船海軍の分類に別れを告げたのが産業革命による艦艇の発達であった。推進機関は帆から蒸気機関に、
海戦は衝角法から大砲となり、多数の砲を搭載し装甲を施した戦艦が誕生した。さらに、小口径の速射砲を搭載した巡洋艦が出現し、機雷や魚雷などの武器も発明された。しかし、1866年のリッサの海戦以降に海戦がなく、これらの武器の使用法をめぐり多種多様な戦術論が列国海軍では主張されていた。日本海軍でも海軍大学校教官の山屋他人大佐(皇后美智子妃の曾祖父)、その後を継いだ秋山真之中佐などが砲力を最大に発揮するための艦隊編成、艦隊の隊形や丁字戦法、乙字戦法などの砲戦運動法を研究し、日本海海戦前には『海軍基本戦術』『海軍応用戦術』などで丁字戦法が確立されていた。
日本海海戦は明治37(1905)年5月27日午後2時5分に東郷平八郎司令長官の敵前150度の大変針から始まった。東郷艦隊はバルチック艦隊の頭を抑え直角に回頭し同航態勢とした。これが有名な「東郷ターン」であった。この敵前直角回頭に続き横列陣形でバルチック艦隊を撃破し、最後の止めを水雷艇と駆逐艦が刺した。この敵前回頭をロシア海軍が編纂した『露日海戦史』は、ネルソン提督も「発砲ノ自由ヲ失フノ不利ヲ顧ミズ」に、致命的危険といわれた「敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ」てトラファルガルの海戦に勝利したが、東郷提督とネルソン提督の「策戦ガ恰符節ヲ合シ」、「賢明ニシテ旦勇敢ナル行動」により勝利を得た。日本海海戦はネルソン提督のトラフアルガーの海戦、テゲトフ提督のリツサの海戦の成功にも対比されるべき海戦であると高く評価した。
また、マハン大佐はこの海戦で得た「経験は今後の列強の海軍軍備に至大な影響をもたらすであろう。この海戦で最も重要なのは第一に大砲と水雷との関係であり、第二に戦艦と水雷艇との関係である。
東郷大将の艦艇使用法を見るに、戦艦および砲煩を以て海戦の主旨を達するに最も有力なりとする説は毫も変わらず、日本からの消息によると益々この説の正当なるを確定するに至れり」と『ロンドン・タイムス』に書いた。
第一次世界大戦後と戦艦の運用思想
科学技術の発達から潜水艦、飛行機が海上兵力に加わり、艦隊も多様な艦種から構成されるようになった。しかし、列国海軍が第一次世界大戦で得た戦訓は「弩級艦は依然として海戦の大勢を決する最大要素であり、海軍兵力の基幹である」という戦艦中心主義と「巡洋戦艦の価値倍々大なり」、防禦力が弱いとの一部論者の杞憂を一掃し今や用兵上に欠くことのできない艦種となった」との砲力への信望であった。日本海軍の得た戦訓も「弩級艦隊ハ今日尚ホ海戦ノ大勢ヲ決スル最大要素ニシテ、 海軍兵力ノ基幹タル位置ヲ失ハズ」という戦艦中心主義であった。ワシント海軍軍縮会議で主力艦の保有比率を5・5・3の劣勢に押えられると、日本海軍は兵力の不足を補うために新しい戦法を開発しなければならなかった。それが1936年以降慣例となった邀撃漸減作戦であった。この邀撃漸減作戦は太平洋を横断して来攻する米艦隊を潜水艦、次いで航空機で逐次撃破して漸減し、 最後は機をみて戦艦の主砲により撃破するという作戦で、当時は航空機の性能も低く、 航空兵力への期待は偵察や前路警戒、弾着観測と敵の弾着観察を妨害する煙幕転張程度であった。1930年代中期に入り航空機の性能が向上すると、征空権を獲得し味方観測機の弾着観測下に砲戦を行う航空優勢下の砲戦思想へと変化した。さらに、航空機の性能が高まると、航空機による敵艦隊主力の捕捉、 航空撃滅戦と航空機を加えた艦隊決戦思想が急速に高まったが、伝統的な戦艦重視思想を変えるまでには至らず、潜水艦も航空機も艦隊決戦前に敵兵力を漸減する補助兵力と位置付けられていた。
また、劣勢な日本海軍の対応の一つが自己の兵力を消耗することなく、敵を倒すアウト・レンジ戦法で、1939年に策定された連合艦隊戦策では「敵主力トノ射程差ヲ利用シ、遠大距離ヨリ先制射撃ヲ実施シ、敵ノ射撃開始ニ先立チ之ニ一大打撃ヲ加ヘ、勝敗ノ帰趨ヲ決スルハ帝国海軍ニ執リ戦勝ノ一大要訣」であるとされた。そして、このアウト・レンジの思想が日本海軍に常に列国海軍より射程の優る大口径砲を開発させた。
米海軍は1914年に竣工した戦艦ニューヨークに初めて35・6cm砲を装備し、1921年に戦艦コロラドに40・6cm砲を搭載後は、
終戦まで主砲の口径を変えなかった。しかし、 日本海軍は1913年に世界で最初に36cm砲を搭載した巡洋戦艦金剛を、1919年には41センチ砲を装備した戦艦長門、
1941年には46cm砲(射程4万m)を搭載した世界最大の超大型戦艦大和を進水させるなど、日本海軍は常に大口径砲を世界に先駆けて装備してきた。
大和の46CM砲への期待
ところで日本海軍は大和の46cm砲による海戦を、どのように考えていたのであろうか。日本海軍の砲術の権威者で三式弾の発明者の黛治夫大佐は次のように書いている。
射距離3万mの測距誤差は300m内外であり、弾丸は発射後50数秒で弾着し、数秒間は観測や次回の発射角度などの修正にかり、次弾発射には約1分が必要なので初弾発射2分後には第2回目の弾着があり遠近が判定される。3分後には発射諸元を調整した第3回目の弾丸が弾着し、この第3回目の斎射で理論的には敵艦を挟む夾叉弾が得られるはずである。日本海軍の過去の統計では9発の弾丸を発射すると、弾丸は300mから400mの範囲に散布していた。これは300mの間に9発の弾がばらばらに落下し、各弾の間隔は平均40mであることを意味している。ミズリー級戦艦を高さ10m、幅33m、水中弾の有効命中距離を46mとすると、毎回の斉射で夾叉弾の9発中1から2発が命中する計算になる。これを大和で考えると最初の命中弾を得るまでの時間は約5分であり、もし観測機を使い順調に敵艦までの距離や弾着地点までの距離を観測し、航空機との通信も円滑ならば3万mにおける命中率は5パーセント程度と考えられる。この5%の命中率で射撃が続けば、1門当たりの射撃速度は一斉に射撃する斉射間隔を40秒とすれば、毎分1・5発、1艦で13・5発、出弾率を80%と仮定しても1艦主砲の射撃速度は11発で、毎分の命中弾は0・55発、ミズーリが46cm砲9発で撃破(戦闘力ゼロ)されるとすれば、撃破時間は16・5分間、この間の命中弾は5発ないし6発であるが、運がよければ火薬庫に命中して轟沈させることもできる。開戦1ヶ月前に行われた金剛と榛名の射撃成績が射撃距離2万5000mで命中率14%であり、米海軍の命中率が訓練射撃の傍受電報や各種の情報によると、日本海軍の3分の2程度であったことを考えると、大和が9門の砲を発射したとすれば10分以内に敵の勢力を半減できると期待していた。
太平洋戦争中の戦艦の運用思想
ハワイ攻撃時に南雲忠一中将指揮の空母部隊に戦艦霧島・比叡が加えられていたが、これは空母部隊に随伴できる高速力と航続距離をもっていたからであり、 任務は空母部隊の護衛と空母に損害が生じた場合に曳航するためであった。また、金剛・榛名が南方部隊主隊に加えられていたが、 これは戦艦プリンス・オブ・ウエルスと巡洋戦艦レパルスと遭遇した場合を予想したためであった。 世界を驚嘆させた日本海軍の機動部隊の画期的な活躍にもかかわらず、 日本海軍の空母と戦艦の協力体制の発展は艦隊決戦、 戦艦重視の旧来の思想に妨げられ米海軍に比べ進展は鈍かった。 1942年4月10日に戦時編成の改定が行われたが、それは第1航空艦隊に第4航空戦隊の竜驤と祥鳳の2隻を加え、護衛兵力として軽巡洋艦長良を旗艦とする駆逐隊3隊(駆逐艦11隻)を加えたに過ぎなかった。航空関係者からは同年5月の世界最初の空母対空母の珊瑚海海戦の戦訓などから、 空母は攻撃力は大きいが防御力が極めて弱いので、戦艦戦隊や巡洋艦戦隊を航空戦隊に配属すべきであるとの意見が出され、第1航空艦隊に高速戦艦と重巡洋艦が加えられた。しかし、その運用法は不徹底なもので、ミッドウェー海戦では金剛と榛名を空母の護衛に付けたが、大和・長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城など7隻の戦艦は空母部隊が一撃を加えた後に止めを指す部隊として、空母部隊の300海里後方に配置されていた。このため航空攻撃で被害を与えた残存空母を攻撃しようとしたが、距離が遠く中止され為すことなく戦場を離脱しなければならなかった。
ミッドウェー敗北後の42年7月14日に第1・第2航空戦隊(空母5隻)に戦艦戦隊1隊(高速戦艦2隻)、巡洋艦戦隊2隊(巡洋艦8隻)、
小型空母1隻と陸上航空戦隊3隊に軽巡洋艦1隻、駆逐艦10隻で第3艦隊を編成したが、その他の戦艦は低速のため除外されていた。その後の戦艦部隊の活躍としては、空母部隊所属の第11戦隊の比叡・霧島が42年8月24日の第2次ソロモン海戦、
10月26日の南太平洋海戦を戦ったが、 戦艦部隊の活躍で特記すべきことは金剛と榛名がガダルカナルへ向かう輸送船団を援護するために、10月13日深夜にアンダーソン飛行場を砲撃し、金剛が三式弾(多数の焼夷弾が内蔵された親子砲弾)104発、一式弾331発、
副砲(14cm砲)27発、 榛名が零式弾189発、 一式弾294発、副砲21発を打ち込み、小型航空機90機中48機、B-24爆撃機8機中2機を破壊し、
滑走路に3発の命中弾を与え総ての燃料庫を炎上させ、飛行場を一時使用不能としたことであろう。この砲撃をガダルカナルの陸軍部隊は「野砲1000門に匹敵」すると「欣喜雀躍」しが、戦艦が陸上砲台などを砲撃した戦例はあったが、飛行場全体を破壊するという大規模な艦砲射撃は世界の海軍戦史上に特記さるべきことであろう。
1943年12月17日に第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将から、 戦艦を機動部隊に編入すべきであるとの「海上機動兵力戦時編制の改正」に関する意見具申が提出され、この意見を入れ44年3月1日には水上部隊の第2艦隊と、空母部隊の第3艦隊で第1機動部隊が編成された。しかし、米海軍と異なりマリアナ沖海戦に大和・武蔵など5隻の戦艦が参加したが、低速のため空母部隊の直接援護ができず、前衛部隊として前路警戒や間接的擁護にしか利用できなかった。陸上基地配備の陸上航空兵力と艦隊航空兵力を統合した乾坤一擲の「あ」号作戦にも敗北し大型空母3隻を失うと、日本海軍は戦艦伊勢・日向を航空機搭載の航空戦艦への改装工事を始めた。また、艦艇部隊は対空砲火を増設して対処しようと甲板上に対空機銃をハリネズミのように装備した。例えば大和は表に示すとおり43年秋には副砲の15・5p3連装砲2基6門を取り外し、12・7cm2連装高角砲を6基12門から12基24門に、25mm3連装機銃も8基24門から12基36門に増加したが、さらにレイテ海戦前の44年7月には29基87門と3倍にしただけでなく、竣工時にはなかった13mm単装機銃を26挺新設したが、45年4月には63基に増加した。
一方、マリアナ沖海戦敗北2ケ月後の44年7月10日に、日本海軍は大和や武蔵も空母部隊の指揮下に入れ戦艦部隊は伝統的「第1艦隊」との名称を奪われ、連合艦隊の旗艦も大和から巡洋艦大淀に移され、空母部隊が初めて連合艦隊の主役となった。この編成2ケ月後の44年10月17日にマッカサー軍がレイテ島に上陸すると、日本海軍は捷1号作戦を発動した。しかし、
雲龍と天城は8月に竣工したばかり、 戦艦に改装した伊勢・日向の搭載機は22機、それも発艦ができるだけのものであった。マリアナ沖海戦で母艦パイロットの78%を失った日本海軍に残された戦法は、空母を囮として米機動部隊を北方に牽制し、その間に大和・武蔵などの戦艦部隊をレイテ湾に突入させ、戦艦の砲力で湾内の米輸送船団を撃破することであった。
小澤部隊は空母4隻、巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を失ったが、ハルゼー部隊を北方に吊り上げる任務は完全に果たした。
しかし、期待した栗田健男司令長官指揮の大和・武蔵など6隻の戦艦部隊は10月18日にリンガ泊地を出撃したが、パラワン海峡では巡洋艦3隻を潜水艦で、シブヤン海では空襲で武蔵を失い25日には米護衛部隊と遭遇し軽空母1隻と駆逐艦4隻を撃沈したが、レイテ湾直前で謎の反転をしてしまった。戦艦部隊で任務を全うしようと前進したのは西村祥治中将指揮の扶桑・山城などで、西村艦隊はスルガオ海峡を経て南方からレイテ湾に突入しようとした。しかし、海峡にはオルデンドルフ中将指揮の戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦21隻とキンケイド少将指揮の魚雷艇39隻が第一線には水雷艇、第2線には3層の駆逐艦、第3線には4隻の巡洋艦、その後ろにはハワイで沈んだはずの戦艦ウエスト・バージニアなど6隻の旧式戦艦を単横陣に並べて待ち受けていた。この兵力配備は日本海軍が訓練を重ねてきた理想的な邀撃漸減作戦の陣立てであり、また、その砲戦運動は日本海軍が完全勝利を博した日本海海戦のT字戦法であった。また、この海戦にはレーダー射撃も加わっていた。戦艦扶桑・山城はバルチック艦隊のようにT字戦法で敗れ、魚雷艇と駆逐艦の魚雷で止めを刺されスリガオ水道に消えた。この海戦が太平洋戦争中に生じた最初で最後の戦艦対戦艦の戦いであり、大艦巨砲の時代が完全に終わったことを世界に示した海戦であった。