海軍兵学校通史
江田島前史
海軍兵学校の歴史は日本海軍の歴史でもある。明治2年9月に兵部省は各藩から石高に応じて練習生を派遣させ、海軍操練所を東京築地の名古屋藩邸跡に創設し、3年2月に千代田艦を練習艦として教育を開始した。同年11月4日には兵学寮と改称し、明治6年7月には英国からドグラス中佐以下34名を招聘し教育を依頼、ここに日本海軍の英海軍方式が確立された。ドグラス中佐の指導は理論より実習と厳格な試験制度で、成績不良者は水兵に格下げするなど、極めて厳しかった。これが日本海軍に卒業成績過重視の硬直した人事をもたらしたのかもしれない。
なお、ドグラス少佐の提案で日本最初の運動会が明治7年3月に行われたが、その案内文には「勝海舟海軍卿ノ許可ヲ得テ、来タル3月21日ニ海軍諸生徒ヲシテ9場18般ノ競闘遊戯ヲ為サシム、午後1時ヨリ興行ス」と書かれてたが、この運動会は父兄や市民だけでなく、政府や各省の高官まで見物に来る東京の名物であり、まさに海軍は西欧化の先端を行っていた。
明治8年11月には筑波に4期、5期の47名が乗艦し、ハワイ経由サンフランシスコに向かい翌9年4月に帰国した。これが最初の遠洋航海であった。明治9年8月には海軍兵学校と改称された。当時の生徒は満16歳以上18歳未満で定員は毎学級18名で教育期間は5年、4年間は学校で教育を受けるが5年目は練習艦での実地訓練であった。その後、明治19年には教育期間が4年(最後の1年は練習艦)に改訂され、16歳以上20歳以下に改められた。
兵学校の江田島移転には部内だけでなく、部外からも多感な青年期に社会から隔離して健全な社会人が育成できるのかなどの反対が起きた。しかし、海軍兵学校次長兼教務総理の伊知地弘一中佐が、英国留学の経験から移転を強く訴えたことから江田島への移転が決まり、明治19年11月には新校舎の新築工事を開始し、21年の夏休み中に生徒の宿舎となる東京丸が江田島に回航され、8月13日から船内で授業が開始された。明治21年4月には物理、水雷、運用の3講堂と官舎、文庫などが完成し、明治26年6月には赤レンガ造りの生徒館が落成し、生徒は夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫の東京丸から生徒館に移った。
日清・日露戦争と海軍兵学校
明治20年代初期の日本海軍は、旧幕府海軍および各藩海軍出身者、海外留学者、海軍兵学校出身者など、出身を異にする数種類の系統の士官によって構成された寄り合い世帯であった。なかでも薩塵藩出身者が最大派閥で要職を独占し、新しい教育を受けた兵学校出身者は冷遇されていた。これを憂慮した海軍省官房主事の山本権兵衛大佐は、明治26年11月に西郷従道海軍大臣の危惧を排し、薩摩藩出身の将官8名など97名の整理を断行した。この山本大佐の英断によって兵学校出身者に道が開かれ、日清戦争の第一線は兵学校出身者で占められ、日本海軍に勝利をもたらしたのであった。日清戦争は明治27年7月25日の豊島沖海戦で火蓋が切られ、同年9月17日の黄海海戦で制海権を獲得し日本の勝利で終わったが、この戦争には1期から21期までの卒業生が参加し、約700名の士官のうち400名が尉官クラス、残りは佐官クラスの中堅士官になっていた。黄海海戦に勝利をもたらした単縦陣戦法は若い頭から生まれたものであり、世界最初の水雷艇隊の威海衛夜襲に参加した艇長も兵学校出身者で、この中には終戦を総理大臣として実現した鈴木貫太郎大尉がいた。
日清戦争に勝利し台湾と遼東半島を清国に割譲させたが、その直後に独仏露三国の干渉を受け遼東半島をあきらめなければならなかった。この屈辱をバネに国民は「臥薪嘗胆」を合い言葉に、明治29年から38年までの10カ年計画で66艦隊の建造を開始した。この軍拡案に兵学校採用数も増え、明治28年入校の25期の32名は、29期では125名となり、30期以後は8年間200名前後が続いた。
明治37年2月8日に仁川沖海戦で火蓋が切られた日露戦争は、旅順港封鎖作戦、黄海海戦、蔚山沖海戦を経て、明治38年5月27日の日本海海戦の勝利によって終局を結んだが、日露戦争には日清戦争に参加した1期の大将から31期の尉官クラス900名と、37年12月14日に卒業予定の32期192名も卒業を1か月繰り上げ、少尉候補生として戦場に駆けつけたが、この中には山本五十六、嶋田繁太郎、吉田善吾少尉など昭和の海軍を背負った人材がいた。日露戦争では英国で教育を受けた連合艦隊司令長官の東郷平八郎中将、兵学校在校中に米国に留学した第4戦隊司令官瓜生外吉少将、海兵士官学校卒業生の第5戦隊司令官武冨邦鼎少将を除けば、聯合艦隊の主要配置は兵学校卒業生が占めていた。
戦間期・日中戦争と海軍兵学校
日露戦争後、第1艦隊司令長官伊集院五郎中将(のち元帥)の猛訓練が「月月大水木金金」の語を生んだと言われているが、旅順閉塞隊の生き残りを始め歴戦の勇士が母校に帰り、スパルタ式教育が強化され鉄拳制裁も盛んに行われるようになったという。大正3年7月に第一次世界大戦が勃発し、戦時景気で財政が回復し88艦隊の予算が認められると、88艦隊の実現に備え生徒採用数も大正6年の48期は271名に急増し、大正8年の50期から3年間は250名クラスが続いた。教育の面では大正8年には英語の他に独語、仏語なども加わった。大正9年には兵曹長や1等兵曹を試験で選抜し、尉官に登用する選修科学生制度が導入された(昭和17年まで続き1260名が卒業した)。
しかし、大正11年にワシントン海軍軍縮条約が締結されて「ネイバル・ホリディ」が始まると、大正11年度の採用数が一挙に51名に削減された。しかし、生徒数が大きく減らされたのは53期と54期だけで、大正13年入校の55期からは120名前後に回復した。52期には高松宮、53期には伏見宮、54期には山階宮が入校され、創設以来初めて3名の皇族が在校されることになった。大正9年3月に鈴木貫太郎中将が校長に着任すると鉄拳制裁の禁止が厳達され、この禁令は同校長退任後も守られ、下級生が少ないという変則的分隊構成や、大正デモクラシーにも助けられ昭和初期まで続いた。
昭和3年12月に、永野修身中将が着任すると、「白啓自発」「自学自習」「個性啓発」のダルトン・プランによる新教育が行われ、英語が必修となり第2外国語として独語あるいは仏語が指定され、昭和7年入校の63期からは在校年限が再び4カ年、選修科学生の修業年限が1年8ヶ月に延長されるなど、この数年間は「ネイバル・ホリディ」の恩恵を受け、教育内容のもっとも充実した時代となった。
昭和6年9月に満州事変、翌7年1月に第一次上海事変が勃発し、昭和8年3月に満州国の独立を認めないリットン報告が国際連盟で採決されると、日本は不満として国際連盟を脱退した。このような国際情勢を受け採用人数が次第に増え、昭和9年の65期は187名に増員された。しかし、63期から始まった在校4カ年の制度が65期で終わり、66期は6か月、67期、68期は8か月も在学年限が短縮された。ワシントン、ロンドン条約が失効し昭和11年には日独防共協定が締結され、昭和12年7月には廬溝橋事件が勃発した。これに伴って昭和13年入校の68期は288名に増員された。
66期は昭和13年9月の卒業に繰り上げられ、9月27日にあわただしく卒業し、遠洋航海もフィリピン、内南洋方面だけで翌14年1月下句には横須賀に帰港した。67期と68期は最初から在校期間が短縮されて3年4ヵ月となった。昭和14年7月に卒業した67期の248名はハワイヘの遠洋航海があったが、15年8月卒業の68期は新練習艦の香取、鹿島に乗艦し、近海巡航を終って横須賀に帰港すると「遠洋航海取止め、少尉候補生は拝謁の後、霞ヶ浦航空隊へ」の配属命令を受けた。
昭和13年9月18日には江田島移転50週年の記念式が挙行されたが、この頃から戦時体制が一段と進み、同年末には2人の英国人英語教師が姿を消し、昭和15年12月入校の72期からは独、仏、支、露語の授業も廃止され、昭和13年12月の70期455の入校によって、在校生徒は1300名余となったが、69期の在校期間は3年に短縮され昭和16年3月に卒業し、練習艦隊に分乗して訓練を受けた後、艦船部隊、航空部隊などの実動部隊に配属された。
太平洋戦争と海軍兵学校
昭和16年12月8日を在校中に迎えたのは、71期、72期、73期の3クラスであった。午後3時、校長草鹿任一中将は全校生徒を大講堂に集めて「宣戦布告の御詔勅」を奉読し、「飽く迄落ち着いて課業に精進せよ」と訓示し、この日以後も課業は平常どおり行われた。しかし、在校期間の短縮に備えて午前3時間、午後2時間の課業では足りなくなり73期では夜間授業が行われた。昭和16年12月下旬に卒業予定であった70期は、卒業が11月15日に繰上げられ直ちに部隊配属を命じられた。江田島から榛名で柱島沖に行き、聯合艦隊各艦に配乗した者が多いが、広島から特別急行列車で横須賀に行き、出撃直前の艦に深夜着任した者や、なかには金華山沖の洋上で移乗した者もいた。
昭和17年10月から昭和19年8月まで校長であった井上成美中将は、リベラルな空気を注入し、在校生徒の人間形成に大きな役割りを果たしたが、特に英語が出来ない者は帝国海軍には必要としないと、敵性外国語と中学校では英語教育が中止されていたが、入学試験科目から英語を外することはなかった。71期581名は3年の教育を終わり、昭和17年11月に卒業し、第1艦隊の戦艦6隻で3か月間の乗艦訓練を受けた後、第一線部隊に配属された。72期は2ヶ月短縮されて昭和18年9月に卒業すると、半数の317名は戦艦その他で乗艦訓練を受けたが、307名は操縦学生を命じられ特別列車で霞ヶ浦航空隊に向かった。開戦直前の昭和16年12月1日に入校した73期は901名、昭和17年12月1日に入校した74期は1024名と採用数が年々増加したが、これに比例して教育期間は短縮され最後は2年4か月となった。
74期は在校中に航空班600余名と艦船班400余名に分けられ分離教育が行われ、同年11月末には航空班の半数300余名が霞ヶ浦航空隊に入隊して飛行訓練が始められた。74期の卒業式は昭和20年3月30日に江田島の校庭で行われたが、練習航海も乗艦実習も拝謁もなく、航空要員は飛行学生として千歳航空隊へ、艦艇要員は水上、水中特攻要員、陸戦隊要員に振り分けられ、7月15日に海軍少尉に任官したが、これが兵学校出身最後の海軍少尉であった。
昭和18年11月15日に岩国航空基地内に兵学校岩国分校が開校し、昭和18年12月1日に75期3378名の入校式が初めてグランドで行われ、式後に約300名は岩国分校に配属された。昭和19年3月22日には73期898名の卒業式が行われ、直ちに経理学校に参集し、機関学校54期、経理学校34期とともに4月2日に参内、拝謁の後に航空要員500名は飛行学生として霞ヶ浦航空隊に、艦船要員399名は呉に直行し戦艦大和に便乗、5月1日にリンガ泊地に到着し第1機動艦隊の各艦に配属され、マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦で100余名が帰らぬ人となった。昭和18年10月1日には大原分校が開校し、昭和19年9月30日には機関学校が兵学校舞鶴分校となり、兵学校には4つの分校ができた。
76期と77期の採用試験は昭和19年7月に同時に行われ、7431名を採用し昭和3年4月までに生まれた者を76期、残りを77期に振り分けた。昭和和19年10月9日に76期3570名中の機関専攻生徒542名は舞鶴分校に入校し、残りの3028名の入校式は江田島本校のグランドで行われ、終了後に大原分校、岩国分校に向かった。
昭和20年4月10日には77期3771名の入校式が江田島と舞鶴で行われた。この日の江田島が雨であったため入学式が大講堂で行われたが、憧れの短剣が支給されず上級生の短剣を借りて式に臨んだという。この間、3月19日には空襲で生徒3名が戦死し、防空壕構築が本格化した。
4月3日には78期生4048名の入校式が針尾分校で挙行されたが、7月8日には米軍の九州上陸を予想し防府に疎開したが、移転直後に米艦載機の爆撃で校舎が焼失、さらに1300名が赤痢となり14名が死亡、30名が重傷で復員不能という悲惨な状況で終戦を迎えた。一方、岩国分校は6月26日には山口県大島郡久賀町に疎開した。本校の江田島では7月13日の空襲で1名が戦死し、7月28日の空襲では西生徒館と浴場が大破、江田内に避泊していた巡洋艦大淀が横転沈没、利根が満水沈底した。
終戦の日の昭和20年8月15日の江田島は無風快晴であった。玉音放送はほとんど聞取れなかったが、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」というような言々句片に、涙を浮がべ放心したように耳を傾けていた。8月21日には帰省が命じられ、四国方面出身者が表桟橋から「第一まいづる」に乗船、江田島を離れたのを皮切りに次々と帰省し、兵学校生徒の復員は8月24日にほほ完了、その後、10月1日に75期生には卒業証書、76期、77期、78期生には修業証書と栗田校長の訓示が送られた。
明治2年の創立から77年間の卒業生は、総計1万1822名、戦公死者は4012名に達し、全卒業生の33%が護国の英霊と化した。このうちで支那事変までの73年間の戦公死者が5%であるのに対し、3年8月の太平洋戦争の戦公死者は九5%に達した。期別の戦公死者数は72期の337名がもっとも多く、戦公務死率では68期と70期が66%でもっとも高い。また、昭和19年3月卒業の73期は終戦まで僅か1年5か月の間に、902名の31・3%にあたる282名が「水漬く屍」となった。これは2日に1人の割合で戦死者が出たことになる。
しかし、最後の亡国を防いだのは兵学校卒業生であった。岡田啓介(15期)が大局を演出し、鈴木貫太郎(14期)と米内光政(29期)が昭和天皇を助けて懸命に舞台を演じ、井上成美(37期)と高木惣吉(43期)が舞台裏で知恵を絞って脚本を書いた。終戦時の在校生は1万5129名で、77年間の卒業生より4000名も多く、兵学校は消えたが伝統と遺産は残った。兵学校出身者は自衛隊を育てただけでなく、政官財学医などの分野でも重要な役割を果たし、敗戦後の新生日本の繁栄の礎も築いた。