エリス中佐変死事件ー英雄は創られる
1 エリス事件の概要(1)

貿易商と身分を偽称して南洋群島に渡航したアメリカ海兵隊員のエリス(Earl Hancock Ellis)中佐が、 1923年5月12日に過度の飲酒により持病の腎炎が悪化し、
パラオ群島のコロール島で死亡してしまった。 しかし、 死亡直後や太平洋戦争中のみならず、 現在に至ってもエリス中佐の死は、 飲酒と様々な持病によるものと思われるが、
死亡した真の原因は不明であり、 日本軍による毒殺の可能性なしとしないなどとの表現が多々見受けられるが、なぜ、このような疑惑が生まれ現在も解消しないのであろうか。また、なぜ、アルコール中毒で死亡したエリス中佐をアメリカ海兵隊は英雄としたのであろうか。
エリス中佐は1920年8月20日に海兵隊司令官レジュン(John Archer Lejune)少将に、
将来の対日戦争計画を研究する必要性を訴えて海兵隊司令部戦争計画課員に発令された。そして、翌1921年4月にはミクロネシア前進基地構想(Advanced
Base Operation in Micronesia)を完成、 この構想は7月に海兵隊の対日戦争計画として認可され、
1924年に完成したアメリカ最初の「対日戦争計画オレンジ」に組み入れられた。
一方、 エリス中佐は南洋群島前進基地論を完成すると、 ミクロネシア地域の上陸作戦実施適地および日本軍の防備状況を調査のため休暇を申請し、
サモア、フィジーを経由してオーストラリアへ渡り、 1922年11月にシドニーの日本総領事館で海兵隊OBの経営するヒュージ貿易会社代表と職業を偽称して南洋群島へのビサを得たが、(2)
オーストラリアから南洋群島への便船がなかったためフィリピンを経由して8月初旬に来日した。
しかし、8月12日には深酒のため持病の腎炎が悪化し、 アメリカ海軍横浜病院に入院した。
その後退院はしたが9月20日に宿泊先の横浜のグランド・ホテルから救急車で再び強制的に入院させられてしまった。これはエリス中佐が横浜で飲み歩いて泥酔し、
密令により日本がベルサイユ講和条約に違反して南洋群島に軍事施設を建造しているので偵察に行くのだと公言しているとの情報が入るなど、エリス中佐の酒癖が余りにも悪く、
このままでは問題が起きることを虞れた駐日海軍武官コッテン(Ryman A.Cotten)少佐が、
アメリカ海軍横浜病院長のウェブ(Ulys R.Webb)中佐と相談し、 入院隔離し強制的に本国へ送還するためであった。(3)
しかし、 送還されることを知ったエリス中佐は、 監視人である薬剤科長ゼムシュ(Lawrence
Zembsch)中尉の目を逃れ、 10月6日の夜に病院を脱走してしまった。
エリス中佐の以後の行動および南洋群島への潜入経路、 南洋群島における行動の詳細は不明な点が多いが、
戦後の調査によると南洋貿易会社所属の春日丸に神戸から乗船し、 当時は南洋貿易の定期船がサイパン・ヤップ・パラオ・ヤルート・トラック・ポナペ・クサエなどを巡航していたことから、
これら諸島を調査したものと思われるが裏付ける史料はない。 その後エリス中佐はクサエ・ヤップ島などを経由して、
1923年3月中旬にパラオ諸島のコロール島に到着した。
コロール島に於けるエリス中佐の行動および死亡時の状況については、 1950年に海兵隊のウォーデン(Waite
W.Worden)少佐が調査し、 当時の生存者の出入国管理官ギボン(Ngerdako Gibbon)未亡人から、
エリス中佐はギボンの世話で原住民地区に家を与えられ25歳のメタウエ(Maria
Metauie)を妻としていたが、 エリス中佐は酒やウイスキーを手当たり次第飲んでいた。
特に、 死亡当日は朝から狂ったように酔っ払い(Crazy drunk)、 午後5時ごろに死亡したのでギボン夫妻が棺を造り現地人の墓地に埋葬した。
また現地妻メタウエからは6週間同棲したが、エリス中佐は常に散歩と言って出歩いていたが、何をしているかは判らなかった。また、
常に酒を飲んでおり死因は飲みすぎ(Too much sake)だと思う(Believe)との供述を得た。(4)
2 エリス中佐死亡後の日米の対応
(1)東京における日米の対応
エリス中佐の死亡が南洋庁から在日アメリカ大使館に知らされると、 エリス中佐の遺体および遺留品の受領を理由に南洋群島の情報を入手しようと考えたコッテン少佐は、
5月26日に直ちに補佐官のヒューリングス(Garnet Hullings)大尉を海軍省に派遣し、エリス中佐が貿易商でなく現役の海軍士官であることを通知するとともに、確認のため遺体と遺留品を受け取りたいと口頭で申し出た。
この申し出に海軍省副官洪泰夫中佐は、 南洋群島は「昨年4月以来、 全ク海軍ノ手ヲ離レ居ルモノニ付、
爾後ノ御交渉ハ外務省ヲ経テ南洋庁ニ致サルル事適当」であると回答したが、 ヒューリングス大尉は2日後の28日には文書をもって再び要望した。
これに対して洪中佐は「便宜上、当方ヨリ当地南洋庁出張所ニ通知致度処、 希望通リ横浜マデ死体送付ノ件ハ仮埋葬ノ今日、先方ノ情況不明ニ付、直チニ御返事ハ不可能ナルヲ以テ早速パラオ宛、
御希望ノ要領並ニ『エリス』氏カ旅券通リノ商人ニ非スシテ現役ノアメリカ海兵中佐ナル事ヲ電報通知スヘシ」と文書で回答した。(5)
ヒューリングス大尉来訪後、日本海軍は外務省欧米局宛に現在までの経過および処置を知らせ事後の処理を依頼したためか、
以後アメリカ大使館と海軍省との交渉に関する記録はない。 一方、 日本側の了承を得るとコッテン武官はゼムシュ中尉に情報収集上の入念な指示を与え、
ゼムシュ中尉は南洋貿易会社の丹後丸に乗船し7月5日に横浜を出港、遺体を発掘し火葬して遺骨を白木の箱に入れて帰国した。ゼムシュ中尉の来島時に日本側は関係者を集めて説明を行ない、
この説明にゼムシュ中尉がエリス中佐の死亡原因などを了解したと判断したのであろうか、
南洋在勤武官は次のように報告した。(6)
大正12年7月29日 南洋在勤武官発 海軍省・軍令部副官宛、
横浜アメリカ海軍病院薬剤課長、 7月21日当地着。 支庁長ヨリ「エリス」ノ死体及
遺物受取其他後始末完了セリ。 死体開棺検分スルコトナク7月27日火葬ニ付、
死因 ニ付テハ十分了解セルモノノ如シ」。
しかし、出発時には健康上なんら問題のなかったゼムシュ中尉が、 1カ月後の8月14日には出迎えの人も見分けられないほどに衰弱して帰国した。
直ちにアメリカ海軍横浜病院に入院させられ、 やや回復した8月27日にコッテン武官が面談したが、
エリス中佐の死亡原因については常に酒を飲み精神的錯乱状態であったこと以外は何も聞き出せなかった。
しかし、 コッテン少佐はゼムシュ中尉の病因は日射病、 麻薬または鎮痛剤、 あるいは過度の精神的緊張であり、
理由は不明であるがゼムシュ中尉は今回の行動が大変に危険なものであると言っていた。
また、 ゼムシュ中尉はこの行動後に急に反日的となり、 病院勤務の日本人に対しても極めて疑い深くなったとの病院長からの情報も含めてワシントンに報告した。(7)
しかし、 ゼムシュ中尉が快方に向かい記憶が徐々に蘇りつつあった9月1日に関東大震災が発生、
ゼムシュ中尉は倒壊した病院の下敷きとなり圧死してしまった。
(2)アメリカにおける報道
エリス中佐の死亡原因が日本海軍から知らされなかったため、 アメリカの新聞、
特にハースト系やエリス中佐の郷里カンサスなどの地方紙が想像や悪意を込めてこの事件を報道したが、これら新聞報道をまとめれば次の通りとなる。(8)
エリス中佐は一兵卒として海兵隊に入隊したが、 卓越した士官で中佐まで栄進した。
特に、 第一次世界大戦では戦勲によりフランスからレジュン・ド・オヌール勲章、
十字勲章、 アメリカ海軍から特勲章が与えらた。 そして、 エリス中佐は休暇を得て(特別任務のためとの新聞もある)東洋を旅行中であったが、
5月21日に日本の委任統治領パラオ諸島で死亡した。しかし、 2週間も前に死亡しながら日本海軍から知らされたのは昨日のことであり、
しかも死因は未だ知らされていないが死因は「説明されない死(Enexplained death)」、
「不可解な死(Mysterious death)」、 さらに「事故を装った殺人(Acciendentally
killed)」であると報じ、 コッテン武官による強制隔離入院は「東京では日本陸軍官憲に逮捕されたことがあった」、
と変えて報じた新聞もあった。
そして、 エリス中佐が死亡したカロリン諸島はフィリピン・グアムとアメリカ本土との海上交通を厄す軍事的に極めて重要な拠点であり、
日本海軍が潜水艦基地を建設したとワシントンにはしばしば報告されている島であった。
また、 この島は日本がベルサイユ平和条約に違反し海軍基地や要塞を構築しているため、
外国人の訪問を歓迎していない島であると解説し事件2ケ月後の8月には、 遂に日本側からは死因について何の説明もなかった、
あの素晴らしい海兵隊士官の「死因は解明されずJAPの島に埋葬されるであろう」と、
「JAP」という言葉を見出しに使用して報じたのであった。
3 エリス毒殺疑惑発生の理由
以上がエリス中佐の死亡事件に対する日米の対応と現在までに判明した事項であるが、
エリス中佐は海兵隊入隊以前から精神的不安定と欝病気味で自閉症に悩まされていたが、
入隊後はそのために酒を覚え大尉に進級した頃にはかなり深刻なアルコール問題を抱え、
グアム勤務中には神経衰弱と診断され、 1920年には断酒のため3週間アリゾナで入院治療を受けたとの記録があるほど悪化していた。
特に、 海兵隊司令部着任後は持病の腎臓が悪化して入退院を繰り返し、 ミクロネシア前進基地構想は病院から通勤しながら完成したといわれている。
また、 南洋群島へ渡航する途次にもシドニーやマニラで入院したが、 横浜到着後もアメリカ海軍病院にしばしば通院し、
これらのカルテには「一時的精神錯乱...幻想に悩んでいる....急性腎炎」「急性アルコール中毒.....一時的精神撹乱.....震え.....自身で食べられない.....総てのものを窓から投げ捨てる」などとの記録もある病状であった。(9)
これらの記録、 ザカリヤスの回想録による横浜における行状および現地妻メタウエやギボン未亡人の供述、
また南洋在勤武官の電報中の「酒精中毒」などという言葉から、 エリス中佐の死因はアルコール中毒に伴う腎炎の悪化と考えるのが妥当であろう。
ところで、 なぜ、 毒殺疑惑が生まれたのであろうか。 それは南洋庁および日本海軍ともにエリス中佐の死亡理由、
特に病名をアメリカ側に知らせなかった。 いや、 知らせられなかったことに原因があるように思われる。
すなわち、 日本海軍が南洋庁から最初に受けた電報は、(10) 「Representative of
Hughes & Co(Rector St 2 New York) R H.Ellis 42歳旅券番号4029号
各群島情況視察ノ上 泰安丸ニテ当地上陸『メナド』行汽船待合セ中 5月12日午後6時心身譫妄症?(一種ノ精神錯乱ナラン)ニテ死亡ス。死体ハ仮埋葬ニ付シ遺留品保管中(傍点著者)」という「一種ノ精神錯乱ナラン」という病名不明の電報であった。その後、
5月31日に南洋群島在勤武官から海軍省副官宛に「商業視察ト称シ旅行中ノアメリカ人Ellis
酒精中毒、 5月12日コロールニテ死亡。 遺物ニハ軍事関係書類ヲ発見セス。 本人ハ現役海軍中佐ノ由、
事実ナリトセハ職業ヲ偽リ旅行承認ヲ得タルモノト認ム。 遺物アメリカ官憲ニ渡シ差支ナキヤ。
至急何分ノ 御指令ヲ仰ク(11)」との報告があった。 しかし、 海軍は電報用紙の欄外に「不都合ナ行動ナルモダマッテテ当方デ同種ノコトヲヤッタ場合ノ言ヒ掛リニトッテオクガヨシ」と記注しただけで放置してしまった。

なぜ、 アメリカ側に知らせなかったのであろうか。それは、 病名が「心身譫妄症」という不明確な病名であったからではないであろうか。 その後に南洋在勤武官から「酒精中毒」という電報が入ったが知らせた形跡はない。 ザカリヤス中尉やコッテン武官がエリス中佐の横浜に於ける行状から、海兵隊司令官の了承を得て南洋群島の偵察に行くとは信じられなかったように、日本海軍もまさか現役の中佐がアルコール中毒により死亡したとは常識的には考え難かったのではないであろうか。 特に、 アメリカ海軍の名誉も絡む問題であり、 さらに南洋群島の管理が外務省に移管された後でもあり放置してしまったのではないであろうか。これは副官も南洋武官からの「御指示ヲ仰ク」に回答せず、 南洋庁在勤武官から「5月29日発電セル米国人エリスノ件至急何分ノ返電ヲ待ツ(12)」と回答電を催促されていること、 南洋在勤武官が遺体発掘にも立ち会わず、 またゼムシュ中尉の実地検証8日後に状況報告を発信していることでも裏付けられないであろうか。 エリス事件は日本海軍には副官が回答を忘れ、 死体検分に南洋在勤武官が欠席する程度の事件だったのである。
4.アメリカ海兵隊の対応

一方、 アメリカ海軍にとりエリス中佐は対日戦争計画お立案者であり、 エリス中佐の死亡は不法行動中の死亡であり、 ワシントン条約締結直後であっただけに、 この問題が発覚すればレジュン司令官の進退さえ左右する可能性のある重大事件であった。 また、 エリス中佐は13年間も海兵隊司令官を勤め、3代の大統領に仕えた政治力のある海兵隊の父と言われたレジュン司令官の長年の部下であり、 南洋群島の視察はレジュン少将の了解を得たものであった。(13) レジュン少将の地位保全のためにも、 エリス中佐の死は任務中であることが必要であった。 一方、 海兵隊は第一次世界大戦時のダーダネルス上陸作戦の失敗から、 強襲上陸作戦は不可能であると陸軍との統合問題が浮上し、 さらにワシントン軍縮条約などの締結により兵力削減が進められていた。 このためアメリカ海軍、 特に海兵隊は存在理由を確保し、さらに兵力維持を行うために脅威・仮想敵国が必要であり、 対日不信・対日猜疑心が高まることは歓迎すべきことであった。エリス中佐の死亡、 引き続くゼムシュ中尉の疾患などにより疑惑が重なったこともあり、 この疑惑・猜疑心を海軍、 特に海兵隊が利用した。
特に、 エリス中佐は海兵隊の存続を決定的にしたミクロネシア前進基地論、 強襲上陸作戦の先駆者であり、
太平洋戦争はエリス中佐が計画したミクロネシア前進基地構想に従いタラワ・マキン島、
ペリリュー島、 パラオ島、 グアム島、 そして硫黄島、 沖縄と「飛石作戦」を展開し勝利を収めた。
そのうえ、 エリス中佐の行動はアメリカ人好みのロマンと冒険、 そして悲劇性を持っていた。
見方を変えれば南洋群島に潜入するため病気を犯してオーストラリア・フィリピン・日本、
そして南洋群島への大冒険旅行を行い現地妻を得たロマンス、 最後はスパイ活動中の日本海軍による毒殺など英雄とするにふさわしい人物であった。
さらに、 ハースト系新聞やエリス中佐の親戚のラルフ・エリス(Raruf Ellis)が編集長をしている郷里の新聞カンサス・シチーなどが想像的フィンクションを加えてエリス中佐を英雄としていった。
そして、 エリス中佐は英雄となり海兵隊は海兵隊揺籃の地バージニア州カンチコの海兵隊学校強襲上陸作戦演習講堂を「エリス・ホール」と名付け、
講堂の入口にレジュン司令官は次ぎの銘板を掲げエリス少佐を称えたのであった。

アメリカ海兵隊 Earl Hancock Ellis 中佐
強襲上陸作戦のパイオニア・対日戦争計画の先駆者
1880年12月19日、カンサス州イウカに生まる。
エリス中佐は南洋群島作戦計画を作成
1923年5月12日、日本領パラオ群島のコロール島
において情報士官として生命を国家に捧げた。
その性格は最も愛すべく、 その心は不屈であり、
また勇気に満ちていた。(14)
このように、 英雄とされてしまったため、 以後、 真実は隠されてしまった。 エリス中佐の横浜における行動、
強制入院、 脱走などに関して相談さえされていたザカリアス中尉(のちの情報部長、少将)は、
終戦1年後に出版した『日本との秘密戦』の英語版では、 “Strange Case Colonel
X"の章を設けて、 「日本はエリス中佐の目的を知っており、 そのためエリス中佐を南洋群島に送ることに手を貸し、
酒好きなエリス中佐を航海中は船長が、 現地に着くと現地の酒好きな日本人が宴会漬にし麻薬の入った酒を勧め酒浸しにして殺害した」と事実とは全く異なる回想録を書き、
エリス中佐の死を美化した。 しかし、 さすがに日本人に読まれ反論されるのを惧れたのであろうか、
日本版では「原著者よりの要求もあって、 日本に関係のない原著の数章を省略した」中にエリス事件を入れてしまった。(15)
また、 1950年に現地調査をおこなった海兵隊のウォーデン(Waite W.Worden)少佐は、
前述の通り死亡時の状況については正確な記録を残したが、 最後の私見の項で「JAPがエリス少佐をスパイとして疑っており、
常に尾行されていたのだから、 多分毒を盛られたのであろう。 熱心な調査行動の結果、
乾きを覚え何かを飲みたかったのだから、 飲み物に毒を入れるのは困難ではなかったであろう(16)」と調査結果を結んだ。
1980年代に至り拙論(17)などにより学者間では毒殺説も多少は消えたが、
エリス中佐を英雄としたのは政治家と軍人であり日本人が毒殺したとは考えられないと述べる研究者も出るようになった。
しかし、 南洋群島の島民には酒を禁止しながら酒好きなエリス中佐に日本はウイスキーを与えた。
このウイスキーそのものがエリス中佐には毒なのであったと歯切れが悪い。(18)
これと同様な事件として「女性リンドバーク」とも言われたイヤハート(Ameria Earhart)が航法ミスから南太平洋で行方不明となった事件がある。
現在ではフェニックス諸島のニクマロロ環礁に不時着陸した可能性が高まってはいるが、(19)
日本にとって困ったことはイヤハート事件が対日感情の悪化とともにアメリカ人の心を捕らえ、
関心が高まる傾向があることである。 すなわち、 イヤハートが行方不明になったのが支那事変などで日米の対立が激化した1937年7月であったため、
イヤハートがサイパンに不時着したとの噂が広く流布し、 1938年1月にオーストラリアのミニ新聞スミスズ・ウイークリーが、
米豪英海軍が共同して南洋群島の各島嶼を捜索することを日本に認めさせるよう国際連盟に提訴すべきであると提案すると、
ナイ(Gerald P.Nye)上院議員はハル(Cordell Hull)国務長官に新聞のコピーを送付し計画の実現を要求した。(20)
一方、 太平洋戦争が始まると、1943年にはイヤーハートが南洋群島偵察の密命を帯びて飛行したが捕らえられて処刑されたとの戦意高揚映画が作成された。
1960年にはイヤハートがサイパンに不時着し日本軍に捕らえられ処刑されたとして調査団さえ派遣された。(21)
10年後の1970年には戦争中は宮中に匿われていたが、 天皇を東京裁判にかけないことを条件に釈放され、
現在は別名で生きているとか、 日本海軍の測量艦神威に救助されたが、 南洋群島要塞化の秘密を知られてしまったため処刑されたなどと報じられた。
終戦後にイヤハート事件と日本の拘わりが報じられたのは、 安保闘争が火を吹いた1960年であり、
次いで皇居内に匿われていたとの説が流れたのが日米安保改定をめぐる70年安保の年であり、
日米関係がおかしくなりはじめた1970年代には『アメリア・イヤハートの決定版(Ameria
Earhart:The Final Story)』『アメリア・イヤハート事件(Ameria Earhart Incident)』『アメリア・イヤハートの悲劇(The
Ddyssey of Ameria Earhart)』などが出版された。 次いで1991年には「未解決のミステリー」と題した特別番組が放映され、
新聞はイヤハートがサイパンにいたとの怪しげな写真を掲げ、 さらに日本がアメリカの航空技術を入手しようと2人の軍人が誘導電波を発信し、
ヤハート機を南洋群島に不時着させ機体は三菱に運ばれ、 イヤハートは殺害されたとの本が発行されたが、(22)この年は太平洋戦争開戦50周年であり、また、日米がコンピューターやFX問題などの技術分野で対立が顕在化した年であった。
洋の東西を問わず一度英雄となってしまった人物の再評価はなかなか難しいようである。
しかし、 英雄を生み出すために利用された国にとっては迷惑な話であはある。
註
(1)エリス中佐に関しては多数の論文がU.S.Naval Institute ProceedingやU.S.Marine Corps
Gazetteなどに掲載されているが、 最近発行された学術的な単行本としては、Dirk
A.Ballendorf, Earl Hancock Ellis: (Annapolis:U.S.Naval Institute Press,1996)がある。
(2)「シドニー総領事発外務大臣宛電報(大正10年10月25日)」、 「海軍次官井出譲治 発外務次官田中都吉宛(同年11月9日)」「
帝国委任統治地渡航ニ関スル件外国人渡来関係綴」外務省外交史料館所蔵。
(3)Ellis M.Zacharias,Secret Missions:The story of an intelligence officer(New York:G.P.Putnam's
Sons,1946), pp.44-45.
(4)Lt.Colonel Waite W.Worden,USMC Report(March, 1950),USMC.History and
Museum Division (Washington,D.C.)
(5)「武官補佐官Garnet Hulings大尉筆記メモ(大正12年5月26日)」「海軍省副官宛 Hulings大尉書簡(同年5月28日)」「海軍省副官発ヒューリングス大尉宛原議文書、(同年5月29日)」海軍省副官編「大正12年
米国大使館付武官往復文書綴」防衛庁防 衛研究所蔵。
(6)「南洋群島在勤武官発海軍省・軍令部副官宛電報(大正12年7月29日)」「大正12 年公文備考(外交・外国人)」152巻、 防衛庁防衛研究所蔵。
(7)Naval Attache to Director of Naval Intelligence(30 August 1925),USMC.,History
and Museum Division.
(8)米国海兵隊歴史課には11件の新聞記事の切り抜きを保有しているが、資料に新聞名 は記載されていない。
(9)John J.Reber,“Pete Ellis:Amphibious Warefare Prophet," U.S.Naval Institue
Proceedings(November, 1977), p.63.ワシントンの海兵隊歴史課の「エリス中佐関係 ファイル」参照。
(10)「海軍省副官発外務省欧米局長宛「米国海兵中佐『エリス』ニ関スル件(大正12年5月 29日)」前掲「大正12年 米国大使館付武官往復文書綴」。
(11)「南洋在勤武官発海軍省・軍令部副官宛電報(大正12年5月31日)」前掲「大正12年 公文備考」152巻。
(12)「南洋群島在勤武官発海軍省副官宛電報(大正12年6月11日)」同右。
(13)Meril L.Bartlett, Lejune:A Marines's Life,1867-1994(Anapolis;U.S.N.Institute Press, 1996)参照。
(14)Ibid.,Reber, p.64.
(15)エリス・M・ザカリアス『日本との秘密戦』(日刊労働通信社、 1958年)5頁。
(16)Ibid.,Worden Peport.
(17)Yoichi Hirama,“The Death of LCDL.Earl H.Ellis,U.S.Marines Corps -
Why was the Japanese Navy Suspected of Poisoning him", Journal of
the Pacific Society, vol.38(April 1988), pp.21-33.Mrk R.Peatie, Nanyo-The
rise and Fall of the Japanese in Micronesia 1885-1945(Honolulu:University
of Hawaii Press, 1988),p.235.
(18)Dirk A.Ballendorf,“The Micronesian Ellis Mystery," Guam Recorder
Magazine of Guam and Micronesia(Universitu of Guam),Vo.5,No.1,(1975 Second
Series),pp.35-48および著者への手紙(15 February 1988)。
(19)Patrica R.Thrasher,ed., The Earhart Projrct(Tighar:The International Group
for Historical Aircraft Recovery, 1991)を参照。
(20)Walter Roessler & Leo Gomez,Amelia Earhart:Case Closed ?(Hummelstown,PA.:An
Aviation Publishings Book,1995),pp.157-162.
(21)中嶋文彦「イヤハート機サイパン不時着の情報について」防衛研究所戦史部蔵。
(22)Ibid., Amerlia Earhart:Case Closed?, pp.182-183.