「あ」号作戦ーマリアナ沖海戦の検証
はじめに
「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)は草鹿参謀長によれば「綿密を極めた計画」であり、
また戦局においても「小沢部隊は敵に先んじて敵の位置を発見している。 そして攻撃隊は勢い立って全部出て行った。
正にベスト・コンディションである。 今や何の心配することもない。 へこたれたといっても、
まだ角田部隊(陸上航空部隊)はいるし、 それこそ祝杯でも挙げようかというくらいまでに勝利を信じていた」作戦であった。
しかし、日本海軍は完敗し全海上航空兵力と開戦前から日本海軍が「不沈母艦」と考えていた南洋群島に展開した全陸上航空兵力も失い、
以後組織的抵抗が不可能となってしまった。 日本海軍はなぜ負けたのであろうか。しかも、
この作戦は日本海軍がアメリカを仮想敵国とした明治以来、 研究に研究を重ねてきた武器や戦術、
そして訓練に訓練を重ねてきた邀撃漸減作戦をほぼ計画通りに実施できた作戦であり、
さらにアメリカに先立ち日本海軍が先制攻撃によって開始された作戦であった。
本論では「あ」号作戦の敗因およびその問題点を、 日本海軍の対米戦略や日本海軍の体質など、
この作戦に敗北した要因を戦略的歴史的に考えてみたい。
1 作戦構想と作戦準備
(1)「あ」号作戦の原型(邀撃漸減作戦)
「あ」号作戦の最大の特徴は日本海軍が明治以来、 営々として構築し演練して来た邀撃漸減作戦を実施したことである。
言葉を変えるならば日本海軍は、 この作戦のために編成も、 艦艇や航空機の建造や装備も、
そして訓練もこの作戦構想に沿って行ってきた。 この邀撃漸減作戦の構想はワシント会議やロンドン会議で、
兵力が劣勢に押さえ込まれた日本海軍がユットランド沖海戦などの戦訓などをもとに1918年にほぼ概成したもので、
1923年には「帝国軍の用兵綱領」に「敵艦隊ノ東洋方面ニ来航スルニ及ヒ、 其途ニ於テ逐次ニ其勢力ヲ減殺スルニ努メ、
機ヲ見テ我主力艦隊ヲ以テ之ヲ撃破ス」と規定され、 東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、
フィリピン・グアムを攻略後は太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊を、 潜水艦・航空機および水雷戦隊の夜戦によって逐次撃破して勢力の漸減に努め、
同等の兵力となった時期に決戦を挑み撃破するという作戦で、その作戦は概略次の3段階から構成されていた。
1 潜水艦部隊を米艦隊の所在地(ハワイ)に派遣して、 その動静を監視し出撃した場合
はこれを追跡触接し て、 その動静を明らかにするとともに襲撃を反復し、 敵兵力の
減殺に努める。
2 基地航空部隊を南洋諸島に展開し、敵艦隊がその威力圏に入ると母艦航空部隊と協
力して航空攻撃を 加え、 さらに敵勢力を減殺する。
3 敵艦隊が決戦海域に到着すると高速戦艦の夜戦部隊が敵の前衛部隊を撃破し、
続い て水雷戦隊が敵 主力部隊に対して魚雷を主とした夜戦攻撃を決行し、敵艦隊に大打
撃を与え夜戦に引き続き黎明以後、 戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を
行いこれを撃滅する。
(2)陸上基地航空機の準備

ミッドウェー、 ガダルカナルをめぐる航空消耗戦で練達のパイロットの大半を失った日本海軍は、
1943年9月30日に「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を採択し攻勢作戦から守勢作戦に転じた。
そして、 以後千島列島・小笠原諸島・マリアナ諸島・西カロリン諸島・西部ニューギニア・ジャワ島・スマトラ島などを結ぶ範囲を絶対国防圏と定めた。
日本海軍の作戦構想は陸上基地に展開した航空機を、 敵の襲撃方面が判れば偵察機を残して安全な他の基地に移動させ敵の攻撃を交わした後、
再度進出し他基地からの航空機も集中して反撃し、 これら「基地航空部隊を以て彼我機動部隊の決戦前、
尠くとも敵機動航空部隊母艦兵力の3分の一を撃破する」ことを目途としていた。
この作戦構想に基づき日本海軍は南洋群島に飛行場の建設を開始し、 マリアナ沖海戦が生起した時点には次に示す飛行場が完成または概成していた。
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マリアナ諸島 |
西カロリン諸島 |
東カロリン諸島 |
その他の島嶼 |
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テニアン(3) |
ペリリュー(1) |
トラック(3) |
硫黄島(2) |
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グアム(2) |
ヤップ(1) |
ポナペ(1) |
ミレ(1) |
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サイパン(2) |
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メレヨン(1) |
クサエ(1) |
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ロタ(1) |
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ナウル(1) |
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8 |
2 |
5 |
5 |
作戦計画に従い中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将の下に、 第1・第14航空艦隊が編成され、
その指揮を第1航空艦隊長官である角田覚治中将が執った。角田長官は「集中可能ノ全基地航空兵力ヲ決戦海面ニ集結シ
友軍機動部隊ト緊密ナル連係ヲ保持シツツ 戦機ニ投ジ全力ヲ挙ゲテ敵機動部隊ヲ覆滅シ
敵ノ反攻企図ヲ撃推ス」ることとし、 決戦海面に「基地航空部隊ノ大部ヲ集中(第1集中)シ機動部隊ト協力決戦スルヲ本旨トシ
決戦ニ至ル迄ハ基地航空部隊ノ消耗ヲ伴フ如キ積極的反撃 作戦ヲ実施セズ」兵力の整備に努めた。「あ」号作戦計画によれば基地航空部隊の配備は、
定数の1552機(偵察機144機、戦闘機696機、攻撃機570機 その他142機)を整備する予定であった。
そして、 日本はこれら陸上航空機を3個攻撃集団に編成し、 さらに「あ号」作戦発令により北方からは臨時編成の八幡部隊(横須賀航空隊などの教官を基幹とした部隊と錬成中の第27航空戦隊で編成112機)が小笠原諸島などに配備されることになっていた。
第1攻撃集団 サイパン・テニヤン・グァム・トラック方面
第2攻撃集団 パラオ・ヤップ・ペリリュー・ダバオ方面
第3攻撃集団 ニューギニヤ・セレベス方面
(3)水上航空部隊の展開

一方、 日本海軍は基地航空部隊とは別に大空母3隻、中空母2隻、小空母4隻、
母艦航空兵力439機を展開したが、その航空兵力は次の通りでアメリカ海軍が展開した956機(12隻)の半分に過ぎなかった。
母艦航空兵力はあった。
第1航空戦隊(大鳳・瑞鶴・翔鶴) 214機
第2航空戦隊(隼鷹・飛鷹・竜鳳) 135機
第3航空戦隊(千歳・千代田・瑞鳳) 90機 合計 439機
その他の艦艇の艦載水上偵察機36機)
母艦航空兵力の日米比較
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戦闘機 |
爆撃機 |
雷撃機 |
母艦搭載機合計 |
水上機 |
総合計 |
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日本軍(第1機動艦隊) |
222 |
113 |
95 |
430 |
43 |
473 |
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米軍(第58機動部隊) |
475 |
232 |
184 |
891 |
66 |
956 |
しかし、 日本海軍には南洋群島に展開された航空機の支援も期待されており、
計画通り1500機が展開されていれば兵力は2倍、 空襲などで撃破されたが「あ」号作戦が発動された時点には500機が残っており、
日米は航空兵力においてほぼ対等であった。 さらに日本側には作戦海域内にグアム・ロタ・ヤップなどの島嶼を利用した飛行場がり、
その飛行圏内で作戦できる利点と、 日本側は哨戒機で560海里(アメリカ海軍は325〜350海里)、
攻撃機で300海里(アメリカ海軍は200海里)の航続距離があり、日本海軍はアメリカ海軍を100海里アウト・レンジし得る利点があった。
2 作戦の推移と問題点
(1)基地航空部隊の壊滅
日本海軍はまず基地航空部隊を以て邀撃漸減し、 次いで機動部隊の出撃を待ち、
さらに可動可能な潜水艦を集中して決戦を挑む計画であった。しかし、 日本海軍が展開した航空機は1944年2月17日にトラック島が急襲され270機(地上200機、戦闘70機)を失い、
23日にはグアム・サイパンで123機(地上81機、戦闘42機)を損耗、 3月30日にはパラオが急襲され前日に飛来した第1航艦隊の44機と、
30日夜空輸されたばかりの航空機のほぼ全機203機を失しなってしまった。
このように日本海軍は南洋群島に1644機を投入したが、 サイパン上陸が開始された6月11日には20%の500機程度しか残っていなかった。
しかし、 これらの航空機も5月27日のマックアーサー軍のビアク島上陸をアメリカ軍の本格的反攻正面と誤判談して、
渾作戦を発動し第2・第3攻撃集団をニューギニア方面に移動してしまったため、マリアナ沖海戦が始まった時には172機しか決戦海面には配備されていなかった。

さらに、 マリアナ沖海戦に先立ち11日にはサイパンに190機、 グアムに139機、
テニアンに140機が来襲、 12日には0240のグアムに始まり、 0420からはサイパン、0730からはテニアン、
ロタ、パガンなどの飛行場が延べ1400機に襲われ、 日本海軍が期待した陸上航空部隊は迎撃機の発進、陸攻隊の空中退避と被害復旧に追われ、
攻撃隊を編成する余裕はなく、 偵察機を発進させるのが限界で、 敵に何ら損害を与えることなく壊滅してしまった。
サイパン上陸が始まると豪北、 フィリピン、 内地などから展開した部隊による攻撃が開始されたが、
これら航空部隊の攻撃は散発的なもので15日にトラックとヤップから天山 11機(未帰還6機)、
ヤップから彗星3機 銀河10機 零戦11機が、16日にはグアムの天山4機と銀河1機が、
17日にはヤップの彗星17機(未帰還11機)、 銀河3機(未帰還1機)、 零戦31機(未帰還16機)と、
トラックから月光1機、 天山5機が機動部隊を攻撃した程度で、 アメリカ群に与えてた損害も上陸用舟艇1隻を撃沈、
揚陸艦1隻、 護衛空母1隻に被害を与えた程度であった。
ビアク方面に展開された航空機もアメリカ軍のサイパン上陸にともない原隊への帰投を命ぜられたが、
これら航空機はビアク方面の作戦や往復に使用した飛行場の不備などにより多数を失い、
加えて搭乗員の大部分がマラリヤに犯され、 15日までに現隊に帰隊したのは銀河16機、彗星7機、零戦24機に過ぎなかった。空襲を逃れたトラックの第2攻撃集団の一部が19日にグァムに来援した。
しかし、 これら来援した航空機は上空に待ち受ける米戦闘機の迎撃を受けて半数を失い、
本土から展開された八幡部隊も天候不良のため硫黄島への出進が遅れ決戦に間に合わず、
24日に硫黄島周辺の米国機動部隊を襲撃したが見るべき戦果はなかった。比較的航空機による邀撃作戦が活発に行われた、
22日の状況を見ても次のようなもので、 被害のみ多く大きな戦果は得られていない。
☆テニアンの90度450浬の機動部隊に対する攻撃
第1次攻撃 一式陸攻16機(5機 発動機不調で引き返す)、7機未帰還、1機不時着
第2次攻撃 一式陸攻5機、 4機未帰還
第3次攻撃 一式陸攻8機 2機未帰還、1機不時着
☆61航空戦隊の全力攻撃
121空 艦偵5機 全機帰還
321空 夜戦5機 2機未帰還、2機不時着
756空 陸攻11機 9機未帰還
532空 艦爆6機 2機故障で引き返す、2機未帰還
263空 戦闘機18機 17機未帰還
日本海軍は南洋諸島の各島嶼に航空基地を設置したが、 狭い珊瑚礁のため一飛行場に駐機しえる航空機に制限があるため、構想としては各島嶼の航空機を機動運用し、
集中して対処する計画であった。しかし、100海里から300海里も離れた島嶼に分散する航空機を集中するのには、
早期警戒体制と優れた指揮通信組織が必要であったが、 日本海軍にそのような組織的防空態勢はなかった。
このため、 迎撃機を上回る優勢な航空兵力を集中し得る機動部隊に、 ヒツト・エン・ドランの急襲を受け各個に撃破されてしまった。
また、 基地相互間の支援もレーダーで探知され、 展開先の飛行場上空に待ち受ける母艦搭載戦闘機の迎撃を受け大部分を失しない、
日本海軍が長年期待していた不沈空母南洋群島を利用した航空邀撃漸減作戦は、
このような科学的欠陥のため「機動と集中」という戦略の基本を実現できず殆ど戦果らしい戦果を挙げることなく敗れ去ったのであった。
(2)海上航空部隊の壊滅
ワシント会議で主力艦をロンドン会議で補助艦艇を劣勢な比率に押さえ込まれた日本海軍は、
1艦で多数の艦艇と戦える個艦能力の優越と訓練による練度の向上に期待した。
また、 劣勢を補うために自艦は損害を受けることなく相手に損害を与えるため、
相手の射程外から攻撃するアウト・レンジ戦法を極度に重視した。そして、 このアウト・レンジの思想が日本海軍に常に列国海軍より射程の優る大口径砲や酸素魚雷、
さらには航続距離が長い零式戦闘機などを開発させた。 アメリカ海軍が1914年に竣工させた戦艦ニューヨークに初めて35・6センチ砲を装備し、
1921年に戦艦コロラドに40・6センチ砲を搭載した後は、 終戦まで主砲の口径を変えなかった。
しかし、 日本海軍は1913年に世界で最初に36センチ砲を搭載した巡洋戦艦金剛を、
1919年には41センチ砲を装備した戦艦長門を、 1941年には46センチ砲(射程4万メートル)を搭載した世界最大の超大型戦艦大和を進水させた。
そして、 「我ガ主力艦ハ射程ニ於テ4、5千米優越シ」ているので、 「『アウト・レンジ』ニヨリ先制ヲ加フル」べきであるとし、
1939年6月策定の連合艦隊戦策においては、 「我主砲ヲ以テ敵主力トノ射程差ヲ利用シ、
遠大距離ヨリ先制射撃ヲ実施シ敵ノ射撃開始ニ先立チ之ニ一大打撃ヲ加ヘ、 以テ戦勢ノ均衡ヲ破リ勝敗ノ帰趨ヲ決スルハ帝国海軍ニ執リ戦勝ノ一大要訣」であるとしていた。小沢治三郎中将指揮の機動部隊からは6月19日0634に第1目標「7イ」、
0845に第2目標「15イ」および第3目標「3リ」を発見、 次の攻撃隊を発進させた。
0725 第1次(第3航空戦隊) 64機
0745 第2次(第1航空戦隊) 128機
0900 第3次(第2航空戦隊) 49機
1020 第4次(第1航空戦隊) 18機
1030 第5次(第2航空戦隊) 65機

一方、 スプルアンス中将指揮の第58機動部隊は、 日本艦隊を発見できなかったため19日早朝にグァムを攻撃し、 トラッから来援した19機を含めこの早朝の戦闘で戦闘機および爆撃機35機を撃墜し、 滑走路を破壊しグアム基地を無力化した。 そこへ10時29分に150海里前方に第1次攻撃隊64機をレーダーで探知したため、 スプルアンス中将は迎撃機を発艦させた。 スプルアンス中将にとって幸運であったのは日本艦隊を発見できなかったため全戦闘機を保有していたことであった。 レーダーで導かれた第1次迎撃隊は部隊前方60浬の地点で25機を撃墜、 さらに第2次迎撃隊が16機を撃墜した。 迎撃戦闘機を突破した数機が戦艦サウス・ダコダに命中弾1発、 巡洋艦ミネアポリスに至近弾1発を与えたが、 第1次攻撃隊中で母艦に帰投したのは25機のみであった。

小沢本隊からの第2次攻撃隊の128機も60浬手前で迎撃され70機を失い、 さらに艦隊上空に達した航空機も近接信管の弾幕射撃により大部分を失い数機が機動部隊を攻撃しバンカーヒルに火災を起こさせ、ワスプに至近弾1発を与えたに過ぎなかった。 第2次攻撃隊の被害は大きく、 母艦に帰投したのは128機中31機に過ぎなかった。第3波の49機の大部分は第58機動部隊を発見できなかったが、 損害も7機にとどまった。 小沢部隊の第4波、 第5波の83機は分散し、 一群の18機は遠方で阻止され半数にに減った攻撃機が機動部隊上空に達したが、 軽微な被害を与えたに過ぎなかった。 第5波の49機は位置の誤差から機動部隊を発見できず攻撃の機会を失いグァムに向かった。 しかし、 グァム上空を警戒していたヘルキャットに30機が撃墜され、 撃墜を逃れた19機も破壊された滑走路に強行着陸を試みたため全機が大破してしまった。 このような結果となったのは搭乗員の練度を考慮することなく、 アウトレンジ戦法にこだわり航空機を400海狸の距離から発進させたことにあった。 このためアメリカ艦隊の上空に到着できたのは2隊、 さらにこれらの部隊が同時に到着できなかったため、 個々に逐次撃破されてしまったのであった。
3 敗因の分析
航空参謀であった源田実は作戦「計画そのものは殆ど非難すべきものは無いのであるが、
その裏付けとなる部隊の練度は開戦初期に比べ問題とならないほど低いものであった」と述べ、
マリアナ沖海戦の敗因を搭乗員の練習度不足、基地施設の不備、 アウト・レンジの遠距離攻撃などの用兵上の欠陥をあげ、
さらに敗因の原点は機密の漏洩とレーダー・迎撃機などを管制するウェアポンシステの概念の欠如にあったと述べている。
このほか研究者の多くがビアク作戦に幻惑されて作戦の発動方向を間違えたこと、サイパンの防備不足、
基地と艦隊航空部隊との連携の欠如、 アメリカ側のレーダーと航空管制、 VT信管、
潜水艦の活躍などを上げているが、 以下、 これらの敗因中から日本海軍の体質などに触れる基本的問題点を軸に敗因を考えて見たい。
(1)艦隊編成上の問題

昭和18年12月17日には第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将から、 戦艦を空母の対空護衛用として機動部隊に編入すべきであるとの「海上機動兵力戦時編制の改正に関する意見具申」が提出され、
この意見を入れ昭和19年3月1日には戦艦大和や武蔵も空母の護衛部隊として機動部隊指揮官の指揮下に編入するなど大幅な編成替えが行われ、
ここに初めて空母部隊が機動部隊の中枢に位置付けられ次のような編成とされた。
第1機動艦隊(司令長官 小沢治三郎中将)
第2艦隊(司令長官 栗田健男中将)
第1戦隊(戦艦 長門・大和・武蔵)
第3戦隊(戦艦 金剛・榛名)
第4・第5・第7戦隊(重巡洋艦10隻)
第2水雷戦隊(軽巡洋艦 能代、 駆逐艦16隻)
第3艦隊(司令長官 小沢治三郎中将兼務)
第1航空戦隊(瑞鶴・翔鶴・大鳳)
第2航空戦隊(隼鷹・飛鷹・龍鳳)
第3航空隊(千代田・千歳・瑞鳳)
第10戦隊(軽巡洋艦矢矧、 駆逐艦14隻)
また、 この編成替えで連合艦隊の主力を、 基地航空部隊の第1航空艦隊と空母部隊からなる第1機動部隊の2本とし、 第1機動部隊は水上部隊の第2艦隊と空母部隊の第3艦隊とで編成され、 戦艦部隊の第2艦隊には第1戦隊の長門・大和・武蔵、 第3戦隊の金剛・榛名が配属され、 扶桑・山城、 それに空母に改造中の日向・伊勢は連合艦隊付属とされた。 なお、 この改編で常に第1艦隊に属していた戦艦部隊が伝統的「第1艦隊」から去り、 ここに第1艦隊は消滅し、 連合艦隊の旗艦も戦艦大和から巡洋艦大淀に移され、 ここに戦艦の時代は編成上からも終わりを告げたのであった。 しかし、 戦艦部隊へのノスタルジアであろうか、 思想の固定化・因習であろうか、 第1艦隊は編成上からは消えたが戦艦部隊が第2艦隊であり、 主役の空母部隊は第3艦隊のままであった。 また、 この改編で戦艦部隊が機動部隊司令長官の指揮下に入ったが、
戦艦や巡洋艦が直接空母を護衛するアメリカに対し、 小沢艦隊のマリアナ沖海戦における陣形は、
大和・武蔵など戦艦5隻は空母の後方100海里に配備され、 空母部隊の1撃後に戦艦部隊が突撃し「止めを刺す」という旧来の大艦巨砲主義の夢を脱したものではなかった(この部分はミッウェー海戦であり、不注意に間違えてしまったのですが。14年前に書いたこの部分を指摘されましたので修正します。しかし、出張中でこのメールを放置しましたところ、1週間後には大上段に批判されました。ネット社会は怖いですね)。 このため戦艦部隊はアメリカ航空機の飛行圏外に位置することとなり、 戦艦豚いお損害は軽微で榛名が爆撃で軽い損害を受けた程度であったが、空母部隊はミッドウェー同様に空母4隻と母艦パイロットの78パーセントを失い、 この海戦以後は特攻的作戦以外の作戦を立案することを不可能としたのであった。
(2)潜水艦作戦

日本海軍は潜水艦部隊が防御された部隊を攻撃しても戦果が上がらないので、
潜水艦を海上交通破壊作戦に使用すべきであるとの潜水艦部隊からの強い要望や、
ドイツ海軍の度重なる忠告にもかかわらず、 日本海軍は従来の邀撃作戦にとらわれマリアナ沖海戦でも主力部隊を迎撃するために21隻の潜水艦を出動させた。
しかし、 これら潜水艦は1隻も沈めることなく、 何一つ役立つような情報も送ることなく17隻が沈められてしまった。
悲惨であったのは伝統的な邀撃作戦の教範どうりにアドミラルイ諸島の北130海里に北東から南西に30海里間隔に「ナ」哨戒線に1列に配備されたロ号潜水艦であった。
日本潜水艦の戦法を熟知し展開線の方位を知ったアメリカ海軍の護衛駆逐艦イングランドは30海里間隔で配備された潜水艦を、
レーダーで探知し12日間に次々と6隻を沈められてしまったのであった。
一方、 潜水艦による邀撃漸減作戦が成功したのは日本海軍でなくアメリカ海軍であった。
アメリカ海軍はタウイタウイ沖に3隻、ミンダナオ島南東海面に3隻、ルソン島北方に3隻、
サンベルジノ海峡東口1隻、 ルソン海峡3隻、マリアナ諸島海域に5隻、 フィリピン海、
サイパン西方およびパラオ北方海域に9隻と28隻の潜水艦を配備し、 小沢艦隊がタウイタウイ停泊中の1カ月の間に湾外を哨戒中の駆逐艦雷・水無月・早波・風雲・谷風を撃沈し、
訓練中の空母千歳を雷撃して外洋における飛行訓練を不可能として搭乗員の練度を低下させ、
さらに給油艦建川丸を撃沈した。また、 小沢艦隊が出撃すると小沢艦隊を追尾し、
刻々と情報を送り機会を捕えて攻撃して駆逐艦白露とタンカーを撃沈し、 さらに海戦の最中に大型空母大鳳・瑞鶴を雷撃し撃沈する成果を揚げた。
(3)作戦計画漏洩問題
マリアナ沖海戦の1ヵ月前の3月31日の深夜、 連合艦隊司令長官古賀峯一大将、
参謀長福留繁中将と司令部要員全員は、 アメリカ軍の空襲が近いと判断すると二式大艇2機に分乗してパラオからフィリピンのミンダナオ島に向かった。
しかし、 ミンダナオに近づくと異常気象に遭遇し古賀大将の乗った1番機は行方不明となったが、
福留参謀長らが乗った2番機はフィリピン西部のセブ沖に不時着し、 福留中将以下9名がフィリピンのゲリラの捕虜となってしまった。
福留中将ら一行は現地陸軍部隊とゲリラとの交渉によって11日後の4月11日に陸軍部隊に引き取られたが、
この時にマリアナ沖海戦や後のフィリピン沖海戦の作戦計画の原案である「Z作戦要領」や「Z作戦指導腹案」、
それに暗号書などが地元の漁民に拾われフィリピン・ゲリラを通いてアメリカ軍に渡ってしまった。
そして、 海戦の5日前には次のようなウルトラ情報要約が部隊指揮官には通知されていたのであった。
連合艦隊司令長官は現在のマリアナにおけるアメリカ軍の行動は牽制ではなく、
上陸作戦をともなう本格的反攻と判断している模様である。 長官は「あ」号作戦の命令を発した。
これは3月8日に作成されたZ作戦要領をわずかに修正した程度で大筋では変化なく、
これまでの対応パターンは同要領に基づいていると判断される。 第1機動艦隊はサイパンの西ないし北西約350海里の地点に進出し、
哨戒、 索敵のため硫黄島、 ヤップ、 パラオ、 ウォレアイ、 トラックの基地航空機、
ウルシー基地の飛行艇、 巡洋艦や戦艦の偵察機を利用するであろう。 タウイタウイを13日1000に発した空母部隊が速力18ノットとすれば14日1300スリガオ着、
給油を6時間とみて1900作戦海面着と推定する。 要するに戦艦6隻、 空母9隻と随伴の巡洋艦、
駆逐艦からなる日本艦隊は早ければD12日の早朝、おおむね16度N、140度Eの地点に到達するであろう。
以上の推定は潜水艦の発見報告、 通信解析とわずかな暗号解読に基づくものであるが、
敵はその能力からして航空機をぎりぎりの遠距離から発進させ、 攻撃後マリアナ諸島の陸上基地に着陸させる可能性が極めて高い。
潜水艦の報告によれば13日1000シャブ海峡北方に空母6隻、 戦艦4隻、 巡洋艦8隻、
駆逐艦からなる艦隊が進路320度、 速力18ノットで北上中である。 空母は第1・第3航空戦隊、
戦艦は第3戦隊(榛名・金剛)と山城、 長門、 巡洋艦は7または4戦隊プラス最上、
矢矧、 プラス7または4戦隊の2隻と思われる。 武蔵・大和の第1戦隊と羽黒、
妙高の第5戦隊と駆逐艦5隻は13日2200バチャ発、 第1機動艦隊と合同のため北上中、
合同地点は不明であるがミンダナオ、 マリアナ間のいずれかであろう。
このように日本海軍の作戦計画を「わずかな暗号解読」で理解できたのは、 アメリカ軍が「Z作戦計画」「Z作戦指導要領」を入手していたためであった。
日本海軍は作戦計画がアメリカ軍の手に渡っているとの兆候を5月にはアメリカ側の情報から確認していた。
しかし、 連合艦隊の次席指揮官が捕虜となり、 さらに、 その時に最高機密の作戦計画が敵手に渡ったことが知れれば、
士気が落ち、統制が乱れると考えたのであろうか、 中央にまで責任が及び東条の下男と悪評の高かった嶋田海軍大臣兼軍令部総長を退陣に追い込むことを恐れたのであろうか。
あるいは「ことなかれ主義」の日本人の体質が出てしまったのであろうか。 喚問もお座なりで福留中将の責任は不問に付されたのであった。
しかし、 このマリアナ沖の敗戦が嶋田海軍大臣では戦えない。 海軍がおさまらないとの動きとなり、
嶋田海相を辞任させ東条内閣を瓦解させ、 海軍良識派は終戦を射程に入れて米内光政大将を海軍大臣に送ったのであった。
以後、 海上航空勢力を失った日本海軍にできる作戦は特攻作戦しかなかった。 そして、
特攻攻撃が始まったフィリピン基地では「捕虜になったような長官の下ではやる気もなくなる」との愚痴を言いながらも、
航空部隊の隊員は日本海軍を代表して最後まで一糸乱れることなく涙ぐましい抵抗を続けたのであった。
おわりに
1927年に海軍大学校で、 当時の軍令部作戦部長末次信正少将は「邀撃漸減作戦の前提はアメリカ艦隊が予想通り来航することであり、
アメリカ海軍が日本に有利な条件下に、 来航するか否かが大きな問題である。 また、
邀撃漸減作戦自体の問題として、 索敵のためには分散が必須条件であるが、 敵を発見したら集合しなければならないが、
敵は最初から集合して来襲するので、 分散して策敵している方が不利である。 漸減されるのは最初から分散した方ではないであろうか。
漸減しようとして漸減される恐れが多いのではないか。それなら最初から集合して当たればよいが、
集合したのでは索敵が十分にできず発見が困難となる。しかし、 例え、最初から集合して当たったとしても劣勢な勢力を集中するのであるから、
たいした勝目は見い出せない。これをいかに見い出すかが今日の大きな悩みである」と述べたが、戦争は末次少将の危惧の通り経過にした。すなわち、アメリカが攻勢に転じたのは大型空母を多数完成した1944年以降であった。
マハンに学んだ日本海軍は、 「艦艇は同一金額で建造された海岸砲撃台には対抗出きない」というマハンの宣託が陸上基地航空兵力と母艦航空兵力との間にも適用されると考えた。
しかし、 この原則は航空基地と航空基地との間が数百浬離れた南洋群島では適用できなかった。
それは陸上作戦にも適用できるマハンがジョミニから学び、 最も強調した総ての戦争に通ずる大原則である「集中と機動」の前に崩れ去ったのであった。
不沈空母南洋群島は「機動と集中」による圧倒的な母艦搭載航空兵力の前に無力化され、
さらに、 アウト・レンジしたはずの日本海軍は、 レーダーと組み合わされたEWの早期警戒システムとACの航空管制の前にアウト・レンジされ、
先制・奇襲攻撃をモットーとした日本海軍はレーダーと近接信管という技術的奇襲を受け敗退したのであった。