大艦巨砲の極致となった最後の戦艦列伝

はじめに

 巨砲を装備し威風堂々と走る戦艦は、 一国の海軍力の表徴であるばかりでなく、 国力を表徴し国家威信の象徴として、 広く国民から敬愛されていた。 しかし、 その戦艦がワシントン条約などにより対米比率を5対3、 隻数比率で17隻対8隻の劣勢を強いられると、 日本海軍は1艦で多数の艦艇と戦える個艦能力の優越と、 訓練による練度の向上に期待した。 また、 劣勢を補うために相手の射程外から攻撃するアウト・レンジ戦法を開発した。そして、 このアウト・レンジの思想が日本海軍に常に列国海軍より射程の優る大口径砲や酸素魚雷、 さらには航続距離が長い零式戦闘機などを開発させた。

 アメリカ海軍が1914年に竣工させた戦艦ニューヨークに初めて35・6センチ砲を装備し、 1921年に戦艦コロラドに40・6センチ砲を搭載後は、 終戦まで主砲の口径を変えなかったが、 日本海軍は1913年に世界で最初に36センチ砲を搭載した巡洋戦艦金剛を、 1919年には41センチ砲を装備した戦艦長門を、 1941年には46センチ砲(射程4万メートル)を搭載した世界最大の超大型戦艦大和を進水させた。 そして、 「我が主力艦ハ射程ニ於テ4、5千米優越シ」ているので、 「『アウト・レンジ』ニヨリ先制ヲ加フル」べきであるとし、 1939年6月策定の連合艦隊戦策においては、 「我主砲ヲ以テ敵主力トノ射程差ヲ利用シ、 遠大距離ヨリ先制射撃ヲ実施シ敵ノ射撃開始ニ先立チ之ニ一大打撃ヲ加ヘ、 以テ戦勢ノ均衡ヲ破リ勝敗ノ帰趨ヲ決スルハ帝国海軍ニ執リ戦勝ノ一大要訣」であるとした。

 一方、 劣勢な比率を強いられた日本海軍の対米作戦構想は、 東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、 フィリピン・グアムを攻略後は、 太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊を、 潜水艦・航空機および水雷戦隊の夜戦によって逐次撃破して勢力の漸減に努め、 同等の兵力となった時期に決戦を挑み撃破するという作戦で、その作戦は概略次の3段階から構成されていた。

1 潜水艦部隊を米艦隊の所在地に派遣して、 その動静を監視し出撃した場合はこれを 追跡触接して、
 その動静を明らかにするとともに襲撃を反復し、 敵兵力の減殺に努める。
2 基地航空部隊を内南洋諸島に展開し、敵艦隊がその威力圏に入ると母艦航空部隊と 協力して航空
  攻撃を加え、 さらに敵勢力を減殺する。
3 敵艦隊が決戦海域に到着すると高速戦艦の夜戦部隊が敵の前衛部隊を撃破し、 続い て水雷戦隊が
  魚雷を主とした夜戦攻撃を決行し、敵艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き黎明以後、 戦艦部隊を
  中核とする全兵力を結集して決戦を行いこれを撃滅する。

 以下、 このような思想から第二次世界大戦を戦った日本海軍の戦艦12隻の建造上の特徴を概括し、 次いで太平洋戦争における戦歴、 およびその問題点などについて考えてみたい。

1 世界を震撼させた戦艦群の誕生
(1)金剛型戦艦

 金剛型戦艦はドレッドノート型戦艦と巡洋戦艦の出現で、 保有艦が全て旧式となってしまった日本海軍が、 劣勢を回復しようど建造された巡洋戦艦で、 1番艦の金剛はイギリスのヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場で明治44年1月17日に起工され、 第一次世界大戦の始まる1年前の大正2年8月16日に完成し、 11月に横須賀に回航された。 金剛の基準排水量は2万7500トンで、 当時イギリスが建造中であったライオン型の2万6000トンより1500トン大きく、 また主砲もオライオンの13・5インチ砲より一回り大きい世界最大の14インチ(36センチ)砲を装備した最大・最速・最強の巡洋戦艦であった。 同型艦には比叡・霧島・榛名の3隻があったが、 比叡は金剛の図面を参考に横須賀海軍工廠で明治44年11月4日に起工され、 第一次世界大戦が勃発した直後の大正3年8月4日に、 日本がそれまでに建造した最大の戦艦として誕生した。 第3番艦の榛名は明治45年3月16日に神戸の川崎造船所で、 第4番艦の霧島は明治45年3月17日に三菱長崎造船所で起工され、 大正4年4月19日に民間造船所で建造された最大の軍艦として完成した。
世界最大の36センチ砲を装備した速力27・5ノットの巡洋戦艦4隻の誕生は、 世界各国の羨望の的となり日本海軍の名声を高めた。

 特に、 第一次大戦中には戦艦が不足したイギリスから、 これら戦艦の地中海への派遣依頼や譲渡、 アメリカからはドイツ艦隊の襲撃に備え、 東海岸への派遣さえ依頼されるほど引っ張りだこの軍艦であった。 金剛は艦歴が古いだけに戦歴も多く、 第一次世界大戦では開戦劈頭にハワイー日本間の海上交通を保護するためにミッドウェーまで出撃し、 さらに、 金剛をはじめ榛名・霧島・比叡は大正9年にはシベリヤ出兵にも参加した。 一方、 比叡はロンドン海軍軍縮条約が締結されたため、 昭和7年には4番砲塔を取り除かれ砲術学校の練習艦として戦列から去らねばならなかった。 しかし、 このため昭和8年の大演習や横浜沖観艦式の御召艦、 昭和10年の満州皇帝訪日時の御召艦、 陸軍大演習時の鹿児島宮崎行幸時の御召艦、 昭和11年9月の陸海軍大演習時の御召艦、 同年11月の神戸沖観艦式の御召艦となるなど華やかな舞台に恵まれた名実ともにHMIS(Her Majesty Imperial Ship)でもあった。

 これら戦艦はジェットランド沖海戦以前に建造されたため、 大正9年以降の改造でジェツトランド海戦の戦訓を入れ砲戦距離の増大に対応するため、 水平防御の強化と主砲仰角の増大が行われたが、 大正13年から昭和7年にかけて順次行われた第1次改装では、 バルジの新設、 火薬庫や機械室などの防御強化、 ボイラーの重油専燃式への換装などが行われた。 しかし、 この結果排水量が3000トン近くも増加し速力が26ノットに低下したため、 巡洋戦艦から戦艦に艦種が変更された。 昭和10年の軍縮条約の期限切れ後の昭和8年から15年にかけて行われた第2次改装では、 機関の換装、 艦尾の延長、 カタパルトの搭載による偵察能力の向上、 高角砲搭載による対空防御力の向上がなされ、 これらの近代化の結果、 上部構造物の形態が一変した。 特にこの改装で機関出力が2倍近く増大され、 速力が30ノットに回復したため高速戦艦に分類を変えた。 金剛型戦艦の高速化成功は決戦前夜の漸減戦に高速戦艦部隊を積極的に活用することを可能とし、 1934年には海戦要務令が改定され夜戦への投入が確定された。

(2)扶桑・日向型戦艦
 
 扶桑・伊勢型戦艦は金剛型巡洋戦艦の建造によりイギリスから導入した技術を基礎に、 最初に建造した超ド級戦艦で、 扶桑は大正4年11月8日に呉海軍工廠で、 山城は同6年3月31日に横須賀海軍工廠で竣工し、 長門や陸奥が就役するまで長らく日本海軍の代表的存在であった。 当初は巡洋戦艦金剛型4隻と対をなす超ド級戦艦として扶桑型4隻を建造する予定であったが、 建造予算の成立が遅れたため扶桑型2隻と伊勢型2隻に分けられた。 扶桑型に続く伊勢型はジェットランド海戦の戦訓を加味し、 さらに扶桑の不備を補完して神戸の川崎造船所で大正6年12月15日に、 日向は長崎の三菱造船所で大正7年4月30日に完成した。 扶桑・伊勢型とも金剛と同じ36センチ砲を搭載していたが、 砲数は2連6基12門と金剛型より4門増やしたため、 扶桑が完成した時にはイギリス・ドイツ・アメリカの戦艦よりも砲が2門多く、 また常備排水量も32万9330トンとイギリスのアイアン・デューク型(2万5400トン)、 ドイツのケーニッヒ(2万7500トン)を上回り、 翌年にアメリカ海軍がペンシルバニアを完成するまでは世界最強・最大の戦艦であった。

 扶桑・日向型は昭和5年から13年にかけて行われた改造工事で主砲仰角の増大、 バルジの新設、 水雷防御縦壁の新設などによる防御力の増大、 機関の換装、 艦橋上部構造物の改装、 カタパルトの新設、 艦尾の延長工事など新造時とかわらぬ大工事を行ない排水量3万4000トンの大戦艦に変身した。 しかし、 問題は第3・第4砲塔を煙突を挟んで中部甲板に装備したため、 防御力の不足と機関馬力不足を招き、 この型は主機換装後も速力が増大せず速力は最大24・7ノットしか出なかった。戦歴としては大正9年のシベリヤ出兵時に扶桑・伊勢・日向が援護任務で参加した程度で、 その後は関東大震災時に伊勢・日向が救援物資を運び、品川沖に停泊し陸戦隊を都内に配備して警備を行った程度であった。 しかし、 ミッドウェーの海戦で大型空母4隻を失うと、伊勢・日向が速力が遅いこと、 改装が容易なことなどから伊勢が昭和17年12月23日から昭和18年9月5日まで、 日向が昭和18年5月2日から11月30日まで、5番・6番砲塔を撤去して射出機と飛行甲板新設工事を行い航空戦艦に変身した。 しかし、搭載機の開発が間に合わず、 実戦上航空戦艦としての機能を発揮することはできなかった。

(3)長門型戦艦

 長門・陸奥は戦艦8隻、 巡洋戦艦8隻のいわゆる88艦隊の1番・2番艦として建造された戦艦で、 長門は大正9年11月25日に呉海軍工廠で、 陸奥は大正10年10月24日に横須賀工廠で完成した。 当時、 世界の情勢はイギリスが速力25ノット、 38センチ砲を搭載したクィーン・エリザベス型を、 またアメリカが計画中のニューメキヒコ型は36センチ砲ながら3連装砲塔に収めて防御の集中化を行っていた。 このような情勢下で日本独自の力で設計されたのが長門型で、 日本海軍は列国を引き離すため世界最大の40センチ砲を搭載することとした。 また、 さらに建造中にジェットランド沖海戦が生起し、 このため防御を重視した設計変更などもあり、 竣工は1年遅れたがジェットランド沖海戦の戦訓を入れ集中防御方式を採用し、 舷側水線甲板に第2防御甲板、 船体内側に水雷防御壁を設置するなど防御を重視した。 このため防御重量が1300トンも増大した。 しかし、 機関をギヤード・タービンとしたため、 列国戦艦より1・5ノット早い26・5ノットとなり、 進水当時は世界最大・最強・最速の戦艦として誕生した。

 長門は就役5日後には連合艦隊の旗艦となっり、 また所属が横須賀であったため修理や改造期間を除き常に連合艦隊の旗艦とされたため、 連合艦隊の戦艦部隊のシンボル的存在として広く国民に知られていたが、 次に示す長門発行の「軍艦長門案内」からも乗組員の強い自負と誇りが感じられる。「長門は実に帝国国母の第一線に立ち、 重大なる役割を果たすべき日本海軍の花形であ り、 「チャンピオン」である。 軍縮会議の結果、 英米に対し少数の割当てをうけている 日本にとっては、 虎の子よりも大切なものである。 これが全能を発揮すると否とは一 に乗員の双肩にある。 この意義ある長門の乗員1300名は、 艦長を中心として一心 同体となって、 日夕、 研究訓練にはげみ、 長門の有する真の威力の発揮に遺憾なきを 期しているのである。」

 一方、 2番艦の陸奥はワシントン条約で既成艦でなければ破棄を迫られる恐れがあったため、 一部の工事を残したまま就役させた。 しかし、 アメリカ・イギリスが未完成艦として譲らず、 日本は陸奥を保有する代わりにアメリカに戦艦コロラドとウエスト・バージニアの2隻の復活と、 イギリスに戦艦ネルソンとロードネーの2隻の新造を認めて生き延びた日本海軍にとっては「かけがえのない」戦艦であった。 このため、 これら2隻の戦艦は軍縮離条約脱後の昭和8年から11年にかけてボイラーの換装、 防御の強化、 兵装の近代化、 各種指揮装置の充実などが行われ、 これらの工事にともない上部構造物の大幅な改装と艦尾の延長が行われ、 防御甲板の重量も新造時の4884・7トンから8006・9トンに増加、 基準排水量は3万2720トンとなった。 昭和3年4月に長門を旗艦とする第1艦隊第1戦隊の長門・陸奥・扶桑と第1水雷戦隊(天竜・駆逐艦16隻)の大部隊が香港をCurtesy Call(友好・親善訪問)したが、 日本の国威を示す空前絶後の“Show the Flag"であった。これら戦艦の第二次大戦前の戦歴としては、 昭和12年の支那事変に際して陸奥が小松島から、 長門が愛媛県の三津浜から陸軍部隊2000名を上海に運び、 艦載機で陸戦隊を支援した程度であった。

(4)大和型戦艦
戦艦大和は九州沖に沈んだが大和ほど国民に知られ愛惜されている軍艦はないであろう。 それは黒船に驚いた日本が作った世界最大、 空前絶後の大戦艦であり、 また、 その生き方、 運命が日本海軍を象徴し日本人の戦い方を象徴しているからでもあろう。 戦艦大和は日本が軍縮条約を脱退した後に最初に建造された戦艦で、 昭和12年からの第3次海軍艦艇補充計画、 いわゆるB計画のもとに昭和12年11月4日に呉海軍工廠で着工され、姉妹艦の武蔵は長崎の三菱造船所で1年後の昭和13年3月に建造が開始され、 大和が太平洋戦争が始まった昭和16年12月16日に、 武蔵が翌年8月5日に竣工した。大和・武蔵の建造は主力艦の量的建造競争ではアメリカに太刀打ちできない日本海軍が、 個艦能力を強化し質的優位を求めて建造されたもので、 基準排水量は6万4000トンと世界最大の戦艦であったが、最大の特徴は列国の戦艦の40センチの主砲を大きく上回る46センチ砲3基9門を装備していたことであろう。 また、 大和・武蔵の建造は軍艦そのものが、 海軍の最高の機密指定である軍機に指定され、 呉では港内が見える国鉄線路の海側には塀が作られ、 大和が進水した昭和15年8月8日には呉市内で市街戦や防空演習を行い、 市民の関心をそらし、 さらに港内の船舶の航行を禁止するなど、 神経質なまでに秘密保持が図られた。 これは40センチ砲に比べ46センチ砲では弾丸の破壊力が1・6倍、 射距離が7000メートル多く、 砲戦においてアウト・レンジでき、 さらにアメリカ海軍が大和の46センチ砲搭載に気付き建造を始めても、 建造に3年から4年はかかることから、 その間は優位を保てると考えたからであった。 このため大和・武蔵の建造や存在は一切公表されることなく、 生涯を「覆面戦艦」として過ごし、 国民に知られたのは戦争が終わり、 これら戦艦が太平洋に没したあとであった。

2 太平洋戦争と戦艦
(1)ハワイ・マレー沖海戦

開戦時の戦艦は主力部隊として連合艦隊の第1艦隊に所属し、 次のような編成とされていた。 また、 開戦時には大和や武蔵が完成していなかったため、 連合艦隊司令長官山本五十六大将は長門で指揮をとった。

 第1戦隊 長門・陸奥
 第1艦隊 第2戦隊 伊勢・日向・扶桑・山城
 第3戦隊 霧島・比叡・金剛・榛名

 戦艦部隊中、 第3戦隊第1小隊の霧島・比叡が、 南雲忠一中将の指揮する機動部隊に護衛部隊として加えられたが、 これは空母部隊に随伴できる速力と航続距離をもっていたからであり、 また空母部隊に損害が生じた場合には曳航するためであった。 一方、 第3戦隊第2小隊の金剛・榛名は南方部隊主隊に加えられていたが、 これは開戦直前にイギリスが新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエルスと巡洋戦艦レパルスをシンガポールに派遣したためであった。 金剛・榛名はプリンス・オブ・ウエールズ、 レパルスが日本軍のマレー上陸部隊を攻撃のために出撃したとの情報を得て南下したが、 航空部隊がこれら2隻を撃沈したため戦艦部隊同士の戦いはなかった。 一方、 これら高速戦艦以外の戦艦部隊は、 その後の「柱島艦隊」という揶揄を表徴するかのように瀬戸内海の柱島沖に残置され、 機動部隊の引き上げ援護という目的で、 伊豆大島近海まで出動したに過ぎなかった。

 一方、 真珠湾攻撃から帰投した高速戦艦比叡・霧島は休む間もなく、 翌年1月8日にはラバウル攻略作戦のために第1航空戦隊(赤城・加賀)、 第5航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)とともに出撃した。 マレー作戦を支援した金剛・榛名は、 引き続きフィリピン攻略作戦やジャワ攻略作戦を支援していたが、 3月25日には第3戦隊に復帰し、 これら4隻の高速戦艦が南雲機動部隊に配属された。 これは旧式ではあるがイギリス戦艦3隻との戦闘が予想されたためであった。 南雲機動部隊の南方作戦では、 3月1日に霧島・比叡および利根・筑摩が、 アメリカ駆逐艦エドソールを発見し砲撃を加えた。 しかし、 エドソールの巧妙な回避運動に命中弾が得られず、 見かねた機動部隊から艦爆隊が発進され爆撃により大破停止したところを、 これら艦艇部隊の副砲と高角砲で撃沈したというもので、 この作戦で特記すべきことは金剛・榛名のクリスマス島への艦砲射撃程度であろう。

(2)ミッドウェー海戦

 大和が昭和16年12月16日に第1戦隊に編入され、 昭和17年2月12日には連合艦隊旗艦が長門から大和に代わった。 しかし、 主力部隊である戦艦部隊は、 ドーリットルの本土空襲に際して第2戦隊の伊勢・日向・扶桑・山城の4隻が、 ホーネットなどの機動部隊を求めて本州東方に出動した以外は柱島泊地を動かなかった。 そして、 これら戦艦部隊が出動したのは日本の運命を決したミッドウェー海戦で、 金剛・比叡はミッドウェー攻略部隊の護衛部隊として、 榛名・霧島は空母機動部隊の護衛・警戒部隊としてそれぞれ柱島を出港した。 一方、 第1戦隊の大和・長門・陸奥、 第2戦隊の伊勢・日向・扶桑・山城など7隻は主力打撃部隊として出動した。 しかし、 ハワイ・マレー沖海戦や珊瑚海海戦の諸体験や戦訓、 作戦前の研究会で赤城の通信能力が低いため大和は赤城と行動をともにすべきであるとの意見があったにもかかわらず、 空母部隊が一撃を加えた後に戦艦部隊が止めを指すという旧来の艦隊決戦思想から、 戦艦部隊は空母機動部隊の300海里後方に位置していた。 このため、 空母4隻を失いながら距離が離れ過ぎていることから夜戦も中止され、 何らなすことなく戦場を離脱しなければならなかった。

 ミッドウェー海戦で空母部隊の重要性を認識させられた日本海軍は、 昭和17年7月14日に空母部隊中心の第3艦隊を新編し、 その護衛部隊に比叡・霧島を戦艦部隊から外し第11戦隊として編入した。 しかし、 戦艦部隊を第1艦隊、 空母機動部隊を第3艦隊と呼称したことが示すように、 これは従来臨時的に派出していた第3戦隊の戦艦部隊を固有編成に変えただけの不徹底なものであった。 この改編にともない第3戦隊の金剛・榛名は新たに編成された第2艦隊に加えられ、 昭和17年8月5日には武蔵が就役し第1戦隊に加えられたため、 扶桑・山城が第1戦隊から第2戦隊に移され次のような編成となった。

 第1艦隊 第1戦隊 大和・武蔵
 第2戦隊 長門・陸奥・山城・扶桑・
 第2艦隊 第3戦隊 金剛・榛名
 第3艦隊 第11戦隊 比叡・霧島
 (航空艦隊) 伊勢・日向:航空戦艦に改装中
なお、 初めて空母機動部隊として誕生した第3艦隊は次のような編成であった。

 第3艦隊(司令官:南雲忠一中将)
 第1航空戦隊(瑞鶴 翔鶴 瑞鳳)
 第2航空戦隊(竜驤 隼鷹、 その後に飛鷹を追加)
 第11戦隊 戦艦(比叡・霧島)
 第7・第8戦隊 重巡洋艦(5隻)
 第10戦隊 軽巡洋艦長良および駆逐艦16隻)

(3)ガダルカナル砲撃−比叡・霧島の沈没

 昭和17年8月にアメリカ軍がガダルカナルに上陸すると、 連合艦隊司令長官山本五十六大将は連合艦隊の総可動兵力に出撃を命じ、 自身も大和に将旗を翻し8月17日に柱島沖を出港し、 8月28日にはトラックに進出した。 一方、 機動部隊に所属する第11戦隊の比叡・霧島は8月16日に柱島を空母部隊とともに出撃し、 8月24日の第2次ソロモン海戦、 10月26日の南太平洋海戦を戦ったが、 第3戦隊の金剛・榛名も第2艦隊司令官栗田健男中将に率いられ9月にトラックに進出した。 アメリカ軍の航空活動を封止するため、 第3戦隊の金剛・榛名、 第2水雷戦隊の軽巡洋艦五十鈴および駆逐艦9隻が10月13日深夜にガダルカナル飛行場の砲撃を実施した。 射撃の目的は飛行場を砲撃しアメリカ軍の航空活動を封止し、 その間に6隻の高速補給船をガダルカナルに送ることであった。 砲撃は13日2335から14日0056まで行われ、 金剛が三式弾104発、 一式弾331発、 副砲(14センチ砲)27発、 榛名が零式弾189発、 一式弾294発、 副砲21発を発射した。

 この砲撃をガダルカナルの第17軍は「野砲1000門に匹敵」すると「欣喜雀躍」したというが、 戦艦が陸上砲台などを砲撃した戦例は第一次世界大戦中にもあっり、 第二次大戦においても上陸作戦時の援護射撃として多用されたが、 その1年前に飛行場全体を破壊するという、 大規模な艦砲射撃を実施したことは世界の海軍戦史上に特記さるべきことであろう。 なお、 アメリカ側の資料によれば、 この砲撃の被害は小型航空機90機中48機、 B−24爆撃機8機中2機が破壊され、 滑走路に3発が命中し一時飛行場が使用不能となり、 航空燃料の殆どが焼失されたという。 この射撃により輸送船団は15日に無事ガダルカナルに到着し、 懸命な陸揚げ作業によりほぼ8割の物資を陸揚げした。 しかし、 砲撃を免れ残存した航空機の反復攻撃を受け船団は全滅し、 また陸揚げした機材も大部分が破壊され、 ガダルカナルの陸軍部隊に補給するという本来の目的は達成されなかった。

 あくまでガダルカナル奪回を目指す日本軍は、 第38師団の兵力と軍需物資を輸送船11隻に分乗させ強行揚陸を図り、 第11戦隊司令官阿部弘毅中将を指揮官に比叡・霧島および軽巡洋艦長良、 駆逐艦14隻で、 11月15日に再びガダルカナル砲撃を行うこととした。 しかし、 比叡・霧島が11月12日午後1時半にガダルカナルに接近すると、 この動きを察知したアメリカ海軍は重巡洋艦サンフランシスコ、 ポートランドの2隻、 軽巡洋艦3隻、 駆逐艦7隻で迎撃してきた。 日米艦艇部隊の戦闘はレーダー対肉眼の砲撃戦となったった。 比叡が探照灯を付けて砲撃し防空巡洋艦アトランタ、 駆逐艦4隻を沈めジュノーを大破させた。 しかし、 比叡が探照灯を点灯したため上部構造物に集中砲火を受け火災を起こし船体、 機関、 ボイラー、 主砲などは無傷であったが操艦不能となり、 翌日の第1回航空攻撃では魚雷4本と爆弾3発、 午後の第2回の攻撃ではさらに前後部に魚雷1発を受け、 曳航不可能と判断した阿部中将から連合艦隊司令長官へ比叡の自沈処分許可要請電報が打電された。 しかし、 処分の許可は得られなかった。 阿部司令官は再度処分を求める電報を発し、 了解電報を待つことなく午後4時に総員を退去させ雪風の魚雷で処分した。 しかし、 機関も船体も健在であり舵さえ復旧できれば戦場離脱も可能であったため過早の自沈であったと、 その後に問題となり阿部中将は予備役とされた。

 次に日本海軍が失った戦艦は霧島で、 霧島は11月14日に第2艦隊の重巡洋艦愛宕・高雄、 軽巡洋艦長良・川内、 駆逐艦9隻ともにガダルカナルの砲撃を企図して南下したが、 これら部隊はレーダーを装備した最新鋭戦艦サウス・ダコダとワシントンと駆逐艦に迎撃された。 日米最初の戦艦同士の砲撃戦が開始され、 サウス・ダコダは3式弾を受け上部構造物を破壊され、 火災を起こして退却した。 しかし、 後方のワシントンは探照灯の到達圏外からレーダーを利用し正確な射撃を続け、 霧島は40センチ砲弾9発、 12・7センチ砲弾20発以上の命中弾を受けて火災を起こし翌早朝に沈没した。 機動部隊に随伴できる高速戦艦を失った第3艦隊(空母機動部隊)には第3戦隊から金剛・榛名が11月24日付に編入されたが、 ガダルカナルをめぐる海戦、 日米艦隊の砲撃戦で海軍の表徴である戦艦2隻を失ったことは戦局の転換点を暗示するものでもあった。 昭和18年2月にはガダルカナルから撤退し、 4月には連合艦隊司令長官を失うなどソロモンの戦局は厳しさを増していった。

 大和に1年遅れて昭和17年8月5日に武蔵が就役し、 翌年1月にはトラックに進出し2月11日には連合艦隊の旗艦を大和と代わった。 しかし、 山本長官が武蔵で過ごしたのは2ケ月弱に過ぎず、 武蔵の最初の旗艦任務はトラックー東京間の山本長官の遺骨輸送となってしまった。 木更津沖で遺骨を駆逐艦に移すと武蔵は横須賀に入港し昭和天皇の行幸を仰いだが、 その翌日には新しい連合艦隊司令長官古賀峰一大将を乗せて再びあわただしくトラックに向かった。 古賀長官は大和・武蔵・長門・扶桑をトラックに進出させ、 10月19日から12月3日までアメリカ軍のマーシャル諸島上陸の報に丙作戦第3法を発動し、機動部隊とともにブラウン島(エヌェトク環礁)付近まで進出した。 機動部隊には金剛・榛名も参加しており、 久しぶりの日本戦艦部隊の出動であった。 しかし、 会敵の機会はなかった。 会敵の機会はなく、 トラックに帰った戦艦部隊の隊員はソロモンやマーシャルの死闘をよそに基地設営作業などに駆り出され、 また戦艦部隊の低落を象徴するかのように大和、 伊勢、 山城が内地-トラック間の輸送任務(大和は陸軍4000名の輸送)についていた。

 また、 内地では練習艦の香取が潜水艦部隊の旗艦、 鹿島は南洋部隊の旗艦、 香椎が第1南遣艦隊の旗艦任務についているため急速に増員された兵学校や砲術学校などの乗艦実習に当てる艦艇がなく、 このため扶桑は少尉候補生の練習艦、 山城は砲術練習艦として内海にあり、 伊勢・日向は航空戦艦への改装工事のためにドックにあった。 また、 陸奥・長門もミッドウエーの海戦以後、 8月から翌昭和18年1月までトラック島に進出した以外は戦闘にかかわることはなく柱島を動かなかった。 トラックから帰投すると陸奥は横須賀で修理を終え柱島に回航したが、 昭和18年6月8日、 突然に第3砲塔付近から白煙を吹き上げ、 大爆発を起こし船体を2つに裂いて沈没してしまった。 1474名の乗員中、 救助されたのは353名であった。 直ちに査問委員会が開かれた。 しかし、 原因は究明されないまま今日に至ったている。その後、 昭和19年2月にトラック大空襲を受けると連合艦隊はパラオに後退、 さらに3月末にパラオ空襲の情報を得ると戦艦部隊はさらに後方のリンガエン泊地に後退したが、武蔵はパラオ港外でアメリカ潜水艦タニーの雷撃を受け戦死7名、 負傷者11名を出し呉に回航したが、 これら部隊を指揮する連合艦隊司令長官など幕僚を乗せた飛行機が天候不良のため墜落、 連合艦隊司令長官が行方不明(戦死)、 幕僚長がフィリピンでゲリラに捕らえられ次期作戦計画を奪われる不祥事を起こしていた。

(4)マリアナ沖海戦

 昭和18年12月17日には第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将から、 戦艦を機動部隊に編入すべきであるとの「海上機動兵力戦時編制の改正に関し意見具申」が提出され、 この意見を入れ昭和19年3月1日には戦艦大和や武蔵も空母の護衛部隊に編入するなど大幅な編成替えが行われ、 ここに初めて空母部隊を機動部隊の中枢に位置付け次のような編成とされた。

 第1機動艦隊(司令長官 小沢治三郎中将)
  第2艦隊(司令長官 栗田健男中将)
   第1戦隊(戦艦 長門・大和・武蔵)
   第3戦隊(戦艦 金剛・榛名)
   第4・第5・第7戦隊(重巡洋艦10隻)
   第2水雷戦隊(軽巡洋艦 能代、 駆逐艦16隻)
 第3艦隊(司令長官 小沢治三郎中将兼務)
  第1航空戦隊(瑞鶴・翔鶴・大鳳)
  第2航空戦隊(隼鷹・飛鷹・龍鳳)
  第3航空隊(千代田・千歳・瑞鳳)
  第10戦隊(軽巡洋艦矢矧、 駆逐艦14隻)

 この編成替えで連合艦隊の主力を、 基地航空部隊の第1航空艦隊と空母部隊からなる第1機動部隊の2本とし、 第1機動部隊は水上部隊の第2艦隊と空母部隊の第3艦隊とで編成し、 戦艦はこの第2艦隊に第1戦隊の長門・大和・武蔵、 第3戦隊の金剛・榛名が配属され、 扶桑・山城、それに空母に改造中の日向・伊勢は連合艦隊付属とされた。 なお、 この改編で戦艦部隊は主力部隊として位置付けられてきた伝統的「第1艦隊」との名称を奪われ、 連合艦隊の旗艦が戦艦大和から巡洋艦大淀に移され、 ここに戦艦の時代は編成上からも終わりお告げたのであった。 しかし、 戦艦主力部隊へのノスタルジアであろうか、 思想の固定化・因習であろうか、 第1艦隊は編成上からは消えたが、 戦艦部隊が第2艦隊であり、 主役の空母部隊は第3艦隊のままであった。 また、 この改編で戦艦部隊が機動部隊司令長官の指揮下に入ったが、 戦艦や巡洋艦が直接空母を護衛するアメリカに対し、 小沢艦隊のマリアナ沖海戦における陣形は、 大和・武蔵など戦艦5隻は空母の後方100海里に配備され、 空母部隊の一撃後に戦艦部隊が突撃し「止めを刺す」という旧来の大艦巨砲主義の夢を脱したものではなかった。 このため再び空母部隊は壊滅的被害を受けたが、 戦艦部隊は榛名が爆撃で軽い損害を受けた程度であった。 しかし、 この海戦の致命的損害は海上決戦兵力の切り札ともいうべき空母4隻と、 母艦パイロットの78パーセントを失ったことであり、 日本海軍はこの海戦以後、 特攻作戦以外の作戦立案を不可能としたのであった。

(5)レイテ沖海戦

 マリアナ沖海戦に敗退した日本海軍が次に計画した作戦が捷一号作戦で、 これはフィリピン方面に来攻する場合に基地航空部隊と水上部隊により、 アメリカの上陸部隊を撃破するために上陸地点に突入させる作戦で、 この作戦に残余の可動艦艇の大和・武蔵・長門・金剛・榛名の5隻と、 旧式艦の山城・扶桑までもが加えられ戦艦7隻と重巡洋艦13隻、 軽巡洋艦6隻、 駆逐艦30隻がかき集められ次に示す部隊が編制された。

 第2艦隊(第1遊撃隊 栗田健男中将)
   第1部隊(第1夜戦部隊)栗田健男中将
    第1戦隊(大和・武蔵・長門)
    第4・第5戦隊(重巡洋艦6隻)
    第21水雷戦隊(軽巡洋艦1隻、 駆逐艦9隻)
    第2部隊(第2夜戦部隊 鈴木義尾中将)
    第3戦隊(金剛・比叡)
    第7戦隊(重巡洋艦 4隻)
    第10戦隊(軽巡洋艦 1隻、 駆逐艦6隻)

   第3部隊(第3夜戦部隊 西村祥治中将)
    第1遊撃隊(西村祥治中将)
    第2戦隊(山城・比叡)
    重巡洋艦1隻、 駆逐艦4隻
    第2遊撃部隊(志摩清英中将)
    重巡洋艦2隻、 軽巡洋艦1隻、 駆逐艦4隻
    
   第3艦隊(空母機動部隊 小沢治三郎中将)
     第3航空戦隊(瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田)
     第4航空戦隊(伊勢・日向)
     軽巡洋艦3隻、 駆逐艦8隻

 しかし、 異常なことは空母5隻を有する第3艦隊に与えられた任務が、 アメリカ艦隊の撃滅ではなく、 空母を「えさ」にしてハルゼーの機動部隊を北方に牽制し、 大和・武蔵などの砲撃部隊をレイテ湾に突入させる囮となる任務であった。 しかも空母に改装された伊勢・日向には1機の航空機も搭載されていなかった。 囮部隊と化した第3艦隊は昭和19年10月20日に豊後水道を南下し、 24日にはルソン島北東端のエンガノ岬に達し、 ハルゼー艦隊を発見すると4隻の空母から全機76機を発進させた。 しかし、 母艦に帰艦したのは18機のみであった。 そして、 翌25日には早朝から夕刻まで航空機の連続攻撃を受け第3艦隊はハルゼーの空母任務部隊を北方に「吊り上げる」という囮としての任務は完全に果した。 しかし、 瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の全空母、 軽巡洋艦多摩、 駆逐艦2隻を失い、 27日に奄美大島に帰島した小沢部隊には日向・伊勢・巡洋艦大淀、 五十鈴と駆逐艦6隻しか残らなかった。

 一方、 主隊である栗田艦隊は戦艦大和・武蔵・長門・榛名・金剛を率いて22日にブルネイを出撃し、 シャブ海を通りサンベルナルジノ海峡を経てレイテ突入を目指した。 途中でアメリカ潜水艦の攻撃により巡洋艦愛宕など巡洋艦2隻を失い、 さらに24日には早朝から日没まで激しい空襲受け、 武蔵に魚雷19本と爆弾17発が命中し、 武蔵は同夜7時35分ころ急速に左に傾斜して沈没した。 戦死者1022人、 生存者1381人、 沈没位置、 北緯13度7分、 東経122度32分、 水深700メートルであった。 なお、 日本海軍の砲術の権威であった猪口俊平大佐は次の遺書を加藤憲吉副長に託していた。
 
  「ついに不徳のため海軍はもとより、 全国民に絶大の期待をかけられた本艦を失うことはまことに
   申訳なし。 ただ本海戦において他の諸艦に被害ほとんどなかりしことは、 誠に嬉しく、 なんとなく
   被害担当艦となり得たる感ありて、 この点、 幾分慰めとなる。 本海戦において、 全く申訳なきは
   対空射撃の威力を充分発揮し得ざりしことにして、 これは各艦とも下手のように感じられ、 自責の
   念に堪えず。....本日も相当多数の戦死者を出しあり。 これらの英霊を慰めてやりたし。 本艦の損失
   は極大なるも、 これがために敵撃滅戦に些少でも消極的になることはないかと気にならぬでもなし。.....今機械室より総員士気旺盛を報告し来れり。 1905」。

 この空襲で大和と長門も被弾した。 しかし、 反転して進み15日早朝にサマール島沖でアメリカの護衛空母部隊を発見、 高速戦艦の金剛・榛名は護衛空母に迫り護衛空母ガンビア・ベイの撃沈に一役は買った。 しかし、 栗田艦隊はアメリカの護衛駆逐艦の勇敢な散発的魚雷攻撃と航空機の攻撃を受け、 各艦がばらばらになったことから追撃を断念しレイテに向かった。 しかし、 その直後に再び空襲が始まり、 まもなく「謎の反転」と言われる反転を行いレイテ突入を断念した。 なお、 榛名はこの海戦で多数の至近弾を受け14名の戦死者と70名の負傷者を出した。 一方、 金剛はこの作戦では軽微な被害しか受けなかったが、 作戦終了後の11月21日早朝の帰国の途次に、台湾北西の東支那海で潜水艦シーライオンの雷撃を受け4本中3本が命中、 2時間半後に沈没した。

 一方、 支隊の西村艦隊は栗田艦隊より6時間遅れてリンガエンを出撃し、 扶桑・山城を率いてスル海を経てスルガオ海峡から突入を図った。 スル海で小規模な空襲を受けたが同夜半にはスリガオ海峡入り口に達した。 しかし、 海峡入り口には魚雷艇と駆逐艦、 湾内にはオルデンドルフ提督の率いるハワイで海底に沈んだはずの戦艦ウエスト・バージニア、 メリーランド、 ミシシッピー、 テネシー、 カリフォルニヤ、 ペンシルバニヤなど6隻の旧式戦艦と重巡洋艦4隻が待ち受けていた。 これら戦艦群や巡洋艦群は火力の最大発揮をはかるために横列に並び、 日本艦隊に対してレーダー照準射撃を開始した。 最初の犠牲は扶桑であった。 扶桑は魚雷艇の攻撃は交わしたが駆逐艦が発射した魚雷を受けて航行不能となったところに、 さらに魚雷が弾薬庫に命中、 大爆発を起こして船体を2つに裂き、 その後、しばらく炎上しながら浮流していたが30分後に沈没した。 生存者は1人もいなかった。

 最後の命令は3時40分に西村司令官から発せられた、 「われ魚雷攻撃を受く各艦はわれをかえりみず前進し敵を攻撃すべし」であった。残された山城は湾内への突入を続けたが、 15分後に駆逐艦に雷撃され機関に命中し速力が低下したところを集中砲火を浴びて火災を起こし、 さらに魚雷が命中し大爆発を起こし25日午前4時ころに沈没、 生還者ははずか10名にすぎなかった。 この出撃により日本海軍は戦艦武蔵、 山城、 扶桑の3隻の戦艦と重巡洋艦6隻、 軽巡洋艦1隻、 駆逐艦6隻を失い、 残った戦艦も大和・長門・金剛が中破、 榛名が小破と無傷の艦は1隻もなかった。

(6)戦艦部隊の終焉

 日向や伊勢は対空砲火を強化していたためマリアナ沖海戦では無傷であったが、 海軍にはもはや戦艦を組織的に運用する力はなく、 伊勢・日向の2隻はフィリピンへの物資輸送などに従事し、 その後リンガエン泊地にあったが、 昭和20年2月11日にはガソリン、ゴム、 錫などの物資を搭載してシンガポールを出港、 2月20日に両艦とも呉に呼び戻された。 しかし、 燃料が不足した日本に、 これら戦艦を防空砲台として利用するしか利用法はなかった。 2月8日には「艦隊の大部分を主として燃料の見地より第2艦隊より除き、 軍港防空艦とす(第2艦隊改編ノ件仰裁:昭和20年2月8日)」と防空砲台とされた。 そして、 日向は呉工廠に横付けし防空任務についたが、 3月19日に1発、 6月22日に1発の直撃弾を受けたが、 最後まで残っていた。 しかし、 7月24の空襲では13発の直撃弾を受けて大破着底、 この日の戦闘をもって廃艦となった。 なお、 当日の戦死者は艦長以下65名であった。

 
 唯一隻実動艦として残された大和は、 昭和20年2月10日付で戦艦部隊が連合艦隊の編成表から消滅したため、 長官直率の第1航空戦隊の旗艦として天城、 葛城の新空母、 隼鷹・竜鳳の残存空母の旗艦となった。 この編成こそ、 航空部隊が最も望んでいた編成であったが、 しかし、 日本海軍にはもはや空母から発着艦できる搭乗員はいなかった。 一方、 戦局はますます緊迫し、 アメリカ軍の進攻速度は加速した。 2月には硫黄島が玉砕し、 3月には主要都市の爆撃が始まり、 4月1日には沖縄への上陸が始まった。 4月5日には「海上特攻隊ハ.....Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入、敵水上部隊並びニ輸送船団ヲ攻撃スベシ」との命令が発せられた。 この特攻作戦に反対もあったが、連合艦隊参謀長草鹿竜之助少将の大和が「一億特攻の先駆になっていただきたい」との説得で、 4月6日夕刻に巡洋艦矢萩、 駆逐艦8隻とともに沖縄を目指し豊後水道を出撃した。 連合艦隊司令長官からは同日、 「皇国ノ興廃ハ正ニ之一挙ニアリ。 ココニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ、 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍ヲ此一戦ニ結集シ、 光輝アル帝国海軍水上部隊ノ伝統ヲ発揮スト共ニ、 ソノ栄光ヲ後世ニ伝エントスルニ外ナラズ」との決別電報が送られた。 そして、 大和は翌7日に、 九州南東海上でアメリカ艦載機多数の連続的攻撃にさらされ魚雷11本、と爆弾10発を受け午後2時過に大爆発とともに、 九州坊ノ岬沖にその姿を消した。

 敗戦後に唯1隻可動状態で残った長門は、 横須賀に帰投後の昭和20年7月18日にアメリカ艦載機の空襲を受けて中破し終戦を迎え、 9月15日にはアメリカ軍に接収された。 しかし、 長門は翌年3月には原爆実験のモルモットとしてアメリカ軍の手で横須賀を出て、 ビキニ環礁に回航された。 空中爆発実験では何ら被害がなかった長門は、 7月5日の水中爆発では爆心から200メートルに置かれ、 周囲にアメリカ戦艦ネヴァダ(2万7500トン)、 アーカンソー(3万5800トン)、 空母サラトガ(2万6000トン)などが配列された。 爆発で戦艦ネヴァダとアーカンソーは瞬時に沈没し、 空母ニューヨークは7時間半後に沈没したが、 長門は数時間後に傾斜が50度になったが、 それから29日までの5日間、 傾斜角度を変えることもなく浮かび続け、 アメリカ海軍に長門の防水区画の完璧さ、 水中防御の卓越を示した。 しかし、 7月30日の朝には長門の姿はなかったので恐らく29日の夜に沈んだのであろう。 この長門の最後を佐藤和正氏は「捕虜になることをいさぎよしとしない武人のように、 自ら人知れず自決したかのように沈んでいった。 それはまた、 日本海軍の名誉と誇りを示すかのような、 美しい雄々しい最後であった」と書いている。

おわりに

 太平洋戦争に日本は12隻の戦艦を投入したが、 海の王者として仰がれた戦艦が、 戦争末期には商船改造や潜水母艦改造のとるにたりない軽空母の護衛を命ぜられ、 また最も活躍したのが戦艦大和でも武蔵でもなく、 最も古い金剛型の戦艦であり、 日米艦隊決戦の切り札として、 12隻の戦艦が1万数千の優秀な乗組員を第1線部隊から引き抜き、 さらに日本海軍にとっては貴重極まりない重油を無為な出動ごとに消費し、 日本の戦力を食い潰し、 さらにアメリカの機動部隊の空襲を予知すると商船を放置してトラック島やパラオ島などを逃げ出すなど、 日本戦艦の働きは全く国民の期待を裏切るものであった。 1930年代後半(1936年ころ)に、 戦艦無用論が高まると航空本部長であった山本五十六少将は横須賀航空隊を訪れ、「金持ちの家の床の間には立派な置物がある。そのものには実用的価値はないが、 これがある故に金持ちとして無形的な種々の利益を受けていることが多い。戦艦はなるほど実用的な価値は低下してきたが、 まだ世界的に戦艦主兵の思想が強く、国際的には海軍力の表徴として大きな影響力がある。 だから諸君は、 戦艦を床の間の置物だと考え、 あまり廃止廃止と主張するな」と訓示をしたいうが、 貧乏国の日本にとり「床の間の飾り」としては、 高い買い物であった。 また、 ある参謀は戦後に、 戦艦重視主義を反省し次のような手記を残している。

 「武蔵、 大和の敢えない最後は無惨にも国民の期待を裏切った感に耐えない。 無条約時代に入るに先立つて、 主力艦々型の決定は議論の中心となつたものであつたが、 ついに劣勢海軍としては個艦優越の方針を得策とすることに決着した。 (中略) 大和級戦艦の利点は砲威力、 射程、 防御力において3万5千屯級の敵ではなかったばかりでなく、 もし米海軍がこれに匹敵する巨艦を擁するとすれば、 パナマ運河改造の難関に逢着し、 両洋艦隊の移動集中に1大支障が予見せられた。 しかしながら当時においても既に繁多異論があり、 建造の秘密とても早晩漏るるとすれば、 超大戦艦の競争を誘発して財政及び造船力に劣る我が不利はかえって深刻化する虞れがある。 これに加えて大艦少数の場合は被害喪失による減勢率は小艦多数の場合よりも大である。軍務局主務者の如きはN2乗法則より計算して砲戦上においても大艦少数主義の不利を主張した。 唯恨むなくは、 さらに重大なる戦艦、 空母の将来の価値比較に対する覚醒の遅きに失したことである。(中略) 18吋砲大和級の攻撃距離45キロは空母の攻撃距離の10分の1にも及ばなかった」。
 しかし、 戦艦重視はアメリカ海軍も同様で、 アメリカ海軍は戦艦は40分間に900発が発射可能である。 当時、 アメリカ海軍は戦艦15隻を保有していたので、 全戦艦から発射される弾薬は1万3500発となる。 一方、爆撃機を使用して同量の火力を相手に与えるには、 航空機1機で1発の2000ポンド爆弾を搭載できるので、 戦艦1隻分の火力を得るためには900機、 戦艦15隻分の火力を航空機で運ぶとすれば1万3500機が必要である。 また、 爆撃機の就役年数を6年、 戦艦の就役年数を26年とすれば、 この間に必要な航空機は5万8500機で、 これを経費的に比較すると戦艦1隻が5000万ドルとすれば、 15隻では7億5000万ドルになる。 一方、航空機は1機25万ドルなので5万8500機ならば総額145億2500万ドルが必要となる。爆撃機の命中精度を艦砲の4倍としても3375機が必要で、 その費用は35億ドル、 さらに航空機は空母に搭載して戦場に運ばなければならず、 空母1隻で75機を搭載可能としても45隻の空母が必要であり、その建造費を1隻3000万ドルとすれば、 45隻で13億5000万ドルとなる。

 すなわち戦艦ならば15隻で7億5000万ドルで済むが、 航空機で戦艦と同量の火力を運ぶとすれば、 空母45隻と航空機3375機が必要で、 その費用は48億5000万ドルとなり、 戦艦の方が経済的であるとしていた。そして、 このような考え方からかアメリカ海軍は、 太平洋戦争開戦時に日本海軍の11隻に対して、 17隻の戦艦を保有していたが、 空母は日本の10隻(1隻は特設空春日丸)に対して8隻(制式空母7隻と商船改造の護衛空母ロングアイランド)しか保有していなかった。 また、 アメリカ海軍は日本海軍がハワイ・マレー沖で航空機の威力を示した後も戦艦の建造を進め、戦争中にサウス・ダコダ型4隻、アイオア型4隻、 アラスカ型2隻など10隻の戦艦を進水させていた。一方、 日本海軍は大和型4番艦を開戦と同時に建造中止し、 3番艦はミッドウェーの敗北後に空母への改装を決め、 続くD計画で戦艦3隻、 E計画で4隻を計画していたが、これら戦艦の建造計画はすべて取りやめられた。

 確かに「我海軍ノ目的ハ敵艦隊ヲ撃破スルニアリ 敵艦隊ニシテ撃破シ得ンカ 如何ナル問題ヲモ我ガ意ノ如ク之ヲ料理シ得ヘシ」、 「要スルニ戦争ノ目的ハ敵艦隊ノ撃滅ニアリ。 マタ其目標ハ敵艦隊ノ主力ニアリ」との大艦巨砲主義に妨げられ、 なかには無用の長物(愚物)の例として万里の長城、 ピラミット、 それに大和が上げられている。 しかし、 これら戦艦、 特に戦艦大和に集約された陸上でブロック毎に組み立ててから艤装するブロック工法や、 バルバス・バウなどの建艦技術や巨大ドックなどの造艦施設が、 日本の造船界に量産体制を確立し、 戦後日本の造船業を一挙に世界一に押し上げたのでもあった。

参考文献
横井忠俊「第1艦隊の終焉」(上下)(『世界の艦船』1967年4月・5月号)
「海軍」編纂委員会編『海軍 戦艦・巡洋戦艦』(誠文図書、 1984年)
福井静夫『日本戦艦物語(1)』(光人社、 1992年)
佐藤和正『軍艦』(光人社、 1986年)