日米機動部隊の誕生と発展ー第1航空戦隊から第7艦隊の誕生へ




はじめに
 『広辞苑』によれば、 機動部隊とは陸戦では「車両・航空機または海上輸送などで、 遠距離の戦場に急速に派遣できる部隊」、 海戦では「航空母艦を中心とし巡洋艦・駆逐艦などで編成され、 航空戦を主任務とする高速艦隊」とあり、 日本人にとつて機動部隊とは航空母艦を主体とした部隊とのイメージが強いようである。日本人がこのようなイメージを抱くことになったのは、 開戦劈頭にハワイを攻撃した部隊が「機動部隊」と呼称し、 またマリアナ沖海戦に参加した空母を中核とした部隊を第1機動艦隊と呼称されたこいあるように思われる。しかし、 これら機動部隊はその後に誕生したアメリカ海軍の機動部隊に比べれば、 完全な空母中心の部隊ではなかった。 とはいえ、 第2次大戦の劈頭にSea PowerにAir Powerを搭載しハワイを奇襲し、 ダーウィンやセイロン島を強襲するなど、太平洋からインド洋を駆け抜けた日本海軍の空母機動部隊の運用は世界海戦史上画期的なものであった。

 一方、現在の日本人には代表的な機動部隊として、 アメリカ海軍の第7艦隊を連想するものが多いであろう。 しかし、 厳密に解釈するならば第7艦隊は作戦目的や任務、 相手の戦力に応じて、 必要な部隊を編成する任務部隊(Task Force)編成を取っており、 任務によっては部隊に空母が含まれないこともありえるが、 第2次世界大戦中の日本海軍の機動部隊と現代の第7艦隊との相違は、 第7艦隊が航空兵力だけでなく、 両用戦兵力、水上打撃戦兵力、対潜兵力から対機雷戦兵力まで、 作戦目的に応じて必要な兵力適宜組み合わせる複合部隊へと変質し発展したことである。 以下、 日本海軍の空母機動部隊、 アメリカ海軍の「総合的機動部隊」といわれる第7艦隊の誕生と発展の歴史をたどってみたい。

1 日本海軍の機動部隊の誕生と発展
(1)空母の誕生と発展


 世界で最初にSea PowerからAir Powerを派出する空母という艦種を建造したのはイギリス海軍で、 第1次世界大戦中の1917年(大正6年)6月に装甲巡洋艦フューリアス(1万9100トン 8機搭載)を改造し、船体前部に発艦甲板、船体後部に着艦甲板を設けて発着実験を行なった。 次いで翌年1918年9月にはイタリアの商船コンテ・ロッソを改装し、 単一甲板をもった近代的空母の原型ともなった空母アーガス(1万4550トン 20機搭載)を建造した。

 一方、アメリカ海軍は1920年に石炭運搬船ジュピターを改造し、 2年後の1922年年3月にラングレー(1万3989トン 34機搭載)として完成した。 これに対して日本海軍の空母に対する取り組みはかなり遅れたが、この遅れが空母として初めから建造された世界最初の空母との栄誉を鳳翔(7470トン、 21機搭載)に与えることになった。鳳翔は1921年11月13日に浅野造船所で進水し、 その後横須賀海軍工廠でギ装され同年12月27日に竣工した。 しかし、 空母の運用が初めてであったため、 確固たる運用を決するには至らず、1920年に策定された用兵の原則を定めた「海戦要務令(第2次改定)」では、 「1 敵情偵察、 2 敵主力及び空母攻撃、 3 敵航空兵力の撃攘、 4 敵潜捜索攻撃、 5 主隊の前路警戒、 魚雷、 機雷等の監視、 6 敵の運動監視、 射撃効果発揚協力」など雑多な任務が列挙されていた。

 その後、 1927年3月25日に巡洋戦艦から空母に改装された赤城(2万6900トン 60機搭載)が、 1928年3月31日には戦艦から改造された加賀(2万6900トン、 60機搭載)が竣工し、 4月1日には赤城・鳳翔および第6駆逐隊(駆逐艦4隻)で、 世界最初の独立した空母機動部隊である航空戦隊を編成した。 とはいえ、 当時は航空機の性能も低く、 行動半径も100マイル程度であったため、 航空隊は「敵航空機ヲ制圧シツツ攻撃隊ヲ以テ敵艦隊ヲ強襲スルヲ例トス」。 航空機による「適切ナル煙幕使用ハ、 友軍ノ戦闘ヲ有利ニスルトコロ大ナリ」。 偵察機の任務は「主トシテ敵情偵察、 艦隊前路警戒、 敵潜水艦ノ捜索、 攻撃及弾着観測等ニアリ」などと、 機種により多少の任務の分化は生じていたが、未だに確定的な任務は与えられていなかった。

(2)航空艦隊の誕生と発展

 当時の海軍戦略思想では決戦兵力はあくまで戦艦であり、 航空兵力は補助兵力とされていたが、 航空機の性能向上にともない、 1930年代に入ると航空機の第1次攻撃目標を敵空母とし、 先制攻撃によって敵空母の航空兵力による攻撃力を封止し、 制空権を確保した後に戦艦部隊と協力し敵戦艦部隊との艦隊決戦を行うという用兵思想が生まれた。 しかし、 敵艦隊に航空攻撃を行うことは、 敵もまた同様の戦法を取るであろうと考えられ、味方主力部隊の上空警戒も重視せざるを得ず、 このため空母を常に味方主力部隊の視界内に行動させ上空警戒に当たらせるとういう思想から、 1935年には戦艦中心の第1艦隊に第1航空戦隊、 巡洋艦主体の前衛部隊の第2艦隊に第2航空戦隊がそれぞれ配属された。 しかし、 日本海軍の航空運用思想の発展に大きく寄与したのが、 1932年(昭和7年)から始まった上海事変であり、 1937年から拡大した日中戦争であった。

 上海事件を初陣として日本海軍の空母は中国との戦争で、制空権獲得のための航空基地攻撃、 上陸作戦支援航空作戦、 上海郊外の陣地、 主要鉄道や道路を攻撃するという現代にも通じる本格的海上航空兵力の陸上への投入を行なった。 すなわち、 1937年8月15日には第2航空戦隊の加賀(赤城は改装工事中)、 16日には第1航空戦隊(竜驤と鳳翔)の3隻を上海沖に展開し、 本格的航空作戦を開始したが、 9月19日には加賀および陸上に展開された第12・第13航空隊から、 海陸連合の115機による南京への戦略爆撃を行うなど、 実戦経験を重ね日本海軍は運用法・戦術・装備・練度・後方支援能力などを急速に向上させて行った。 一方、 航空部隊の術力や威力が向上すると、 用兵の原則である兵力の集中および統一指揮の問題が生じた。 1938年12月9日には戦場に展開された航空機を統一指揮するため「連合航空隊令」が制定され、 1940年6月9日には第1航空戦隊司令官小沢治三郎少将(のちの中将)から「海戦における航空機威力の最大発揮は、 適時適切に全航空攻撃力を集中するにあり」。

 そのためには平時より全航空部隊を統一指揮し、 「常時指揮官指導の下に訓練し得る如く、 速に連合艦隊内に航空艦隊を編成するを要す」との「航空艦隊編成ニ関スル意見」が海軍大臣に提出された。 しかし、 艦隊決戦は戦艦の主砲で決するとの伝統的思想や、 空母を手放せば前衛部隊や戦艦部隊上空の征空権維持に不安を持つ連合艦隊司令部および前衛部隊指揮官などの反対があり、 陸上の航空機を統一的に運用する第11航空艦隊は半年後の1941年1月に編成されたが、 母艦航空部隊を統一指揮する第1航空艦隊が誕生したのは同年4月10日、 ハワイ攻撃の8ケ月前に過ぎなかった。

(3)第2次大戦中の空母機動部隊の戦い


 連合艦隊司令長官山本五十六大将の強い意向で、 空母部隊によるハワイ奇襲作戦が計画され、 第1航空艦隊の空母6隻に護衛用の戦艦2隻、重巡洋艦2隻、水雷戦隊1隊(軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻)、 潜水艦3隻に給油艦7隻を加えた「機動部隊」という名称の部隊が初めて登場した。 そして、 この部隊から第1次攻撃隊183機、第2次攻撃隊167機、 合計350機の航空機が飛び立ち、 停泊中ではあったが戦艦4隻、 標的艦1隻、敷設艦1隻を沈め、戦艦1隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦3隻を大破し、戦艦3隻、 軽巡洋艦1隻、水上機母艦1隻を中破し航空機231機を撃破した。 また年が明けた1942年2月19日には、 空母4隻(第1・第2航空戦隊)から飛び立った188機が、 オーストラリアのダーウィン港を空襲し、 駆逐艦1隻を含め輸送船など7隻を撃沈、 4隻を中破し港湾施設や補給施設に大打撃を与えた。 また、 4月5日には空母5隻(第2・第5航空戦隊と赤城)の128機が、 セイロン島のコロンボ港の港湾施設や在泊船舶を爆撃し、 駆逐艦1隻と武装商船1隻を撃沈したほか、 潜水母艦、 商船数隻を撃破し航空機25機を撃墜し、 さらに、 その日の午後には付近を航行中の重巡洋艦2隻を撃沈した。 続いて4月9日には121機がトリンコマリー港(セイロン島北部)を強襲し、 軍事施設や停泊船舶に多大の被害を与えたが、 さらに同日午後には91機が空母ハーミス、 駆逐艦1隻を襲撃し撃沈した。ハワイに次ぐ大規模な戦略的空母機動部隊の機動作戦であった。

 第1次世界大戦中に、 水上機母艦が小規模な奇襲攻撃を行った先例があり、第2次大戦でも1940年4月11日に、 イギリス空母フューリアスによるノルウエー峡湾内でのドイツ駆逐艦1隻の撃沈(擱座)、9月16日のイラストリアスのベンガジン夜襲(艦船6隻の撃沈・撃破)、 そして11月11日夜の同じくイラストリアスによるタラント軍港襲撃などがあった。 特にタラント軍港奇襲では、 イタリヤの新型戦艦リットリオ, 旧式戦艦カイオ・デュイリオとコンテ・ディ・カブールの2隻を着底・擱座させ、 さらに重巡洋艦トレンの艦橋にも爆弾1発を命中させ世界の注目を集めた。 しかし、 このタラント空襲も空母1隻から飛び立った復葉の雷撃機ソードフィッシュ21機による夜間の奇襲攻撃であり、 空母をゲリラ的に使用したもので、 空母6隻を使用し350機のAir Powerを投入するという大規模なハワイ攻撃と、 それに続く南太平洋からインド洋へと地球の3分の1を駆け抜けた南雲機動部隊の機動力と、 Air Powerの絶大な破壊力に世界は驚嘆した。

 しかし、 世界を驚嘆させた日本海軍の機動部隊の発展は、 艦隊決戦、 戦艦重視動の旧来の思想に妨げられ、 その後の発展と展開はアメリカ海軍に比べ鈍かった。 1942年4月10日に戦時編成の改定が行われたが、それは第1航空艦隊に第4航空戦隊の竜驤と祥鳳の2隻を加え、護衛用兵力として軽巡洋艦長良を旗艦とする駆逐隊3隊(駆逐艦11隻)を加えたに過ぎなかった。航空関係者からは、 1942年5月8日の世界最初の空母対空母の珊瑚海海戦の戦訓などから、 空母は攻撃力は大きいが防御力が極めて弱い点が問題となり、 防御のため戦艦戦隊や巡洋艦戦隊を航空戦隊に配属すべきであるとの意見がだされた。 しかし、 大艦巨砲主義への根強い執着からミッドウェー海戦に敗北するまで実現しなかった。 ミッドウェー敗北後の1942年7月14日に空母部隊を中心勢力とし、 これに戦艦戦隊1隊(2隻)、 巡洋艦戦隊2隊(巡洋艦5隻)、 軽巡洋艦1隻、駆逐艦16隻など戦艦戦隊や巡洋艦戦隊を加えた空母を主力とする第3艦隊が編成され、 以後連合艦隊の主力部隊として第2次ソロモン海戦、 南太平洋海戦を戦い、 1944年3月1日には戦艦大和や武蔵をも加えた本来の機動部隊を誕生させた。 しかし、 日米間には空母の隻数でもパイロットの練度でも圧倒的な差がすでに生じていた。 その後、 日本海軍は期待したマリアナ諸島の陸上基地に配備した陸上航空兵力と、 艦隊航空兵力を統合したマリアナ沖海戦でも敗北し艦上に離着陸できる多くのパイロットを失い、 日本海軍は近代海軍としての戦力を全く失ってしまた。

 その後、 日本海軍は残存の全空母、 新造や改造など雑多な天城・千歳・千代田・瑞鶴・瑞鳳・伊勢・日向・隼鷹・・龍鳳など9隻(8月10日に雲龍を追加)の空母をもって、 マリアナ沖海戦敗北2ケ月後の1944年7月10日に第3艦隊を編成し錬成訓練を開始した。 しかし、 雲龍と天城は8月に竣工したばかり、 伊勢と日向は戦艦を改造した改造空母で搭載機は艦上爆撃機22機、 それも発艦ができるだけのものであった。 編成2ケ月後にマッカサー軍がレイテ島に上陸し10月23日に「捷一号作戦」が発動された。 しかし、 パイロットも航空機もない第3艦隊には、 もはや空母部隊としての任務は与えられなかった。与えられた任務は大和・武蔵などの砲撃部隊をレイテ湾に突入させるため、 アメリカ空母機動部隊を北方に牽制する囮の役割を果すことであった。 10月24日に、 ルソン島北東端のエンガノ岬に達した第3艦隊から76機が、 ハルゼーの空母機動部隊に向け発進した。 しかし、 母艦に帰艦したのは18機のみであった。 そして翌25日には早朝から夕刻まで6回、 述べ180機に及ぶアメリカ空母機の攻撃を受けた。 小沢艦隊は残余の戦闘機13機を要撃に上げた。 しかし、 全機が撃墜され艦隊はただ回避運動を繰り返すしかなかった。 第3艦隊はハルゼーの空母任務部隊を北方に「吊り上げる」という、 囮としての任務は完全に果したが、 ハワイ以来の歴戦の空母瑞鶴をはじめ瑞鳳・千歳・千代田を失い、 ここに開戦劈頭に世界を驚嘆させた日本海軍の空母機動部隊は消滅した。

2 第7艦隊の誕生と発展
(1)空母機動部隊の発展

 第7艦隊の特徴は海岸から600マイルも内陸部に侵入可能な航空機を搭載する空母部隊であり、 空輸展開能力を持った海兵隊、 それにアメリカ本土から数千海里も離れたアジアや中近東地域のあらゆる事態に長期間対応可能な機動洋上補給能力であるが、 これらの能力はどのようにして発展したのであろうか。 それでは最初に空母機動部隊から考えてみよう。合理性や効率的運用を重視するアメリカ海軍は、 戦艦は16インチ砲(2100ポンド爆弾相当)を9門搭載しているので、 1分間に一斉射可能とすれば、 1時間40分に900発(各砲100発搭載可能として)が発射可能である。 しかし、 爆撃機を使用して同量の火力を相手に与えるには、 1機で2000ポンド爆弾を1発しか搭載できないので900機が必要である。 これを経費的に比較すれば爆撃機の就役年数を6年、 戦艦の就役年数を26年とすれば、 この間に航空機は5万8500機が必要である、 爆撃機の命中精度を艦砲の4倍としても3375機が必要で、 その費用は35億ドル、 空母1隻で75機を搭載可能するとすれば空母45隻が必要であり、その建造費を1隻3000万ドルとすれば、 45隻で13億5000万ドルとなる。 すなわち戦艦ならば15隻で7億5000万ドルで済むが、 航空機で戦艦と同量の火力を運ぶとすれば空母45隻と航空機3375機が必要で、 その費用は48億5000万ドルとなり、 戦艦の方がはるかに経済的である。

アメリカ海軍はこのように考えて太平洋戦争開戦時に日本海軍の10隻に対して17隻の戦艦を保有していたが、 空母は日本の10隻(1隻は特設空春日丸)に対して8隻(1隻は商船改造の護衛空母ロングアイランド)しか保有していなかった。 また、 空母の運用法も、 空母を主体前方200海里から500海里に配備される偵察艦隊(巡洋艦部隊)と、 主体(戦艦部隊)にそれぞれ分属する旧来の運用法で太平洋戦争を迎えたのであった。 しかし、 南雲機動部隊の活動が始まると、 アメリカ海軍はハワイ奇襲時に難を免れた空母ヨークタウン、 大西洋から回航したエンタープライズに巡洋艦や駆逐艦を護衛とした空母任務部隊を直ちに編成した。そして、 ハワイを奇襲された2カ月後の1942年2月には空母任務部隊がギルバート諸島やマーシャル諸島を、 3月には南鳥島やラエ、サラモアを、 さらに4月18日には巡洋艦4隻、 駆逐艦8隻および空母エンタープライズの護衛を受けた空母ホーネット搭載のB-25爆撃機、 16機が日本本土を空襲するなど空母部隊によるヒット・エンド・ランのゲリラ的攻撃を開始した。 その後、アメリカ空母部隊は急速に勢力を増加させ、 珊瑚海、ミッドウェー、ガダルカナル、フィリピン沖の戦いを通して、 徐々に日本海軍の機動部隊を無力化し、 攻勢作戦に転じた1943年3月15日に第7艦隊を誕生させた。 しかし、 その兵力は他の艦隊と異なり戦艦も空母をない第7両用戦群を主力とする上陸作戦専門の部隊であった。 そして、 以後海兵隊を伴った強襲上陸作戦を主体とした第7両用戦部隊が第7艦隊となり、 対日戦争の主力として日本を敗北に追い込んだのであった。

(2)海兵隊の発展と展開

 第7艦隊の第2の特徴はSea Powerから海兵隊というLand Powerを陸上に投入する強襲上陸作戦能力であるが、 この能力は対日戦争から生まれ試練を受けて育ったものであった。太平洋を横断し攻勢作戦を基本とするアメリカ海軍にとり、 大きな障害となったのが、 武器弾薬や物資の移載が洋上では困難なことから、 これらの移載には太平洋に散在する珊瑚礁の利用が考えられたが、 これらの珊瑚礁はいずれも日本の統治下にあり、 さらに問題は第一次世界大戦で英仏連合軍がガリポリ上陸作戦に失敗し、 当時は「防御された海岸への上陸作戦は月に行くほど困難である」と考えられ、南洋群島を占領することが不可能視されていたことであった。 このため海兵隊の存続が問題となり海兵隊は郵便列車の護衛、 在外公館の護衛などでかろうじて存続を続けていた。 この海兵隊存亡の危機を救ったのが1921年6月にエリス中佐が考案した「ミクロネシア前進基地構想」であった。 この構想は1924年に作成された対日戦争計画で正式に承認され、 海兵隊に「敵の防御する海岸に上陸作戦を行い、 艦隊のために基地を開発する」という新しい任務が加えられ、 1933年12月には人員も戦時定員4万人(現員1万7000人)に増強され、 上陸作戦を専門とする艦隊付属の小型旅団規模の艦隊海兵隊をクワンチコに、 そして1935年にはサンヂエゴに誕生させ、 現在の前方展開兵の主力の艦隊海兵隊に成長した。 また、 アメリカ海兵隊は第2次大戦中に日本との戦いを通じて強襲上陸作戦に必要な戦術や武器を開発し、 さらに各種揚陸艦艇を開発したが、特に多種多様な強襲揚陸艦艇の開発は特記されるべきであろう。

(3)洋上機動補給能力の発展

 第7艦隊の第3の特徴は基地依存から艦隊を解放し各種支援艦艇が戦闘海域の近くで支援し作戦効率を高める「洋上ロジスティクス」の強大なことである。 この洋上ロジスティクス能力も日本との戦争で生まれ育ったもので、 アメリカ海軍は太平洋戦争を通じて遠距離・長期間の戦闘に耐える艦隊の洋上支援体制を向上させていった。1906年に作成された最初の対日戦争計画では、 スエズ運河経由で戦艦14隻、 巡洋艦15隻、 仮想巡洋艦6隻、 駆逐艦6隻と補給艦13隻を展開し、 巡洋艦4隻と仮想巡洋艦4隻の東洋艦隊とインド洋上のセーシェルズ諸島で合同の後に北上し、 日本近海で一気に決戦を行う計画であった。 しかし、 問題はハーグ中立条約のため中立国の港湾に入港できる艦艇が同時に3隻、 滞在期間が24時間以内という制限であり、 また補給港と予定している主要な港湾がイギリス領のため、 日英同盟から利用できないという問題があった。 その後、 1914年にパナマ運河が完成し、 太平洋への展開が111日(マゼラン海峡経由)から65日に短縮され問題は大きく前進した。 1903年からはミッドウェー島を海軍省の管轄下に置き、さらに日米の緊張が高まると、 1936年にはハウランド島とベィカー島の領有を宣言し、 1938年2月にはイギリスと領有めぐり抗争中のカントン島とエンダベリー島を共同管理とするなど、 太平洋横断基地網の整備を進めた。しかし、 それ以西には日本が支配する南洋群島がアメリカ艦隊の進路を扼していた。 1920年代には燃料が石炭から石油に変換され補給問題は一歩前進したかに見えた。

 しかし、 航空機の出現や武器の多様化・近代化、 さらに航空時代を迎え南洋群島を基地とする日本海軍の航空兵力に対抗する航空兵力を陸上に展開するには、 各種機材や燃料、 飛行支援施設、 部品などを含めれば日本の5倍から10倍の物資を運ばなければならないという新らしい問題を生起させた。そのうえ、 1922年には軍備現状維持を規定したワシント条約が締結され、 グアム・フィリピンの軍備が凍結されてオレンジ計画をより困難なものとした。 ハワイは条約の適用外とされたが、 ハワイ ー フィリピン間5000マイルを膨大な物資を運ばなければならないという問題は解決されなかった。 特に開戦前には予算的制約もありロジスティツク艦艇は紙上で検討されたに過ぎず、 補給艦艇は開戦1年後に77隻、 翌年10月に至っても358隻に過ぎなかった。 しかし、 その後は徐々に整備され、 マーシャル群島のクェゼリン環礁に展開された第10支援任務群は各種補給艦、 工作艦、 タンカー、 病院船、 サルベージ船、 浮ドックなどを保有する5隊の支援任務隊を、 さらに1944年には機動部隊の指揮下に部隊とともに移動する機動支援任務群を新編さするなど、 機動支援任務群は「第2次大戦中のアメリカ海軍の秘密兵器」といわれるほど重要な役割を果した。
さらに洋上ロジステックスを発展させたのは朝鮮動乱で、 ジェット機の出現など対空脅威の増大にともない部隊として最も脆弱性な時間である補給時間の短縮、 航空攻撃に備えた部隊の分散などが必要となった。また武器の近代化にともない補給品目が爆発的に増大するとともに、 電子部品やミサイルなど壊れ易い物品も増加した。 このような要求から多種雑多・多量の補給物品を、 少ない回数で短時間に補給できる大型多目的補給艦、 ヴァートレップと呼ばれるヘリコプターを使った立体的補給、 補給時間を短縮し安全確実に移載する高速自動移載装置などが開発された。

(4)第7艦隊の誕生と展開

 レイテ上陸作戦には護衛空母や旧式戦艦も加わり第7艦隊の勢力は増加されたが、 日本の降伏にともない第7艦隊は揚子江哨戒部隊とされ、 1947年1月1日には西太平洋から東アジア全般を担当する西太平洋海軍部隊(Naval Forces Werstern Pacific)、 1949年8月19日には第7機動艦隊(U.S.Seventh Fask Froce)と改称された。 しかし、 1950年2月11日には、 アジア情勢の緊迫化にともない再び本来の第7艦隊という旧式名称に戻った。 そして、 第7艦隊が復活した4カ月後の6月25日に朝鮮戦争が勃発し、 6月27日には第7艦隊の主力部隊である第77任務部隊が新編され7月3日には空母ヴァレー・フォージから最初のジェット戦争機(F9F)が北朝鮮の首都平壌の飛行場などの航空施設を空襲した。 朝鮮戦争で特に注目すべきことは空母ボクサーの米西岸から8日と7時間の急速展開と、未熟なパイロットを訓練しつつ26日で作戦に加わった空母フィリピン・シーの急速戦力化であり、さらに9月15日から開始された仁川上陸作戦に集中された攻撃空母3隻、 小型空母4世期、 巡洋艦5隻、 駆逐艦37隻、 両用戦艦艇約70隻を含む総計230隻の兵力集中能力であった。

 その後、 台湾危機の発生に伴い第7艦隊司令官が台湾防衛司令官を兼務したこともあったが、 1957年7月には3軍統合の太平洋軍の誕生に伴い極東司令部が廃止され、第3海兵師団、 第1海兵航空群、 西太平洋戦群、 西太平洋潜水艦群、 第1機雷戦隊などが、 第7艦隊の統制下に入った。 そして、この改編にともないほぼ次に示すような現在の第7艦隊の編成となったのであった。

     TF-71 指揮統制部隊(Command and Connrdination Force)
     TF-72 哨戒偵察部隊(Patrol and Reconnaisance Force)
     TF-73 後方支援部隊(Logistic Support Froce)
     TF-74 潜水艦部隊(Submarine Force)
     TFー75 水上戦闘部隊(Surface Combatant Force)
     TF-76 水陸両用戦部隊(Ampibious Froce)
     TF-77 空母任務部隊(Carrier Strike Force)

 しかし、 第7艦隊の兵力は流動的で作戦目的や任務によって兵力は変動し通常は空母1-2隻、 巡洋艦2-3隻、 駆逐艦12-15隻、 補給支援艦15隻、 前方展開補給船8-10隻、 空母搭載機250機、 陸上配備の航空機約160機から170機、 人員3万、 海兵隊約2万といわれている。 第7艦隊はその後、 1962年にはラオスの内乱やベトナム戦争に参加し、 ベトナム戦争では1972年3月末の北ベトナム軍の南進に対し空母6隻、巡洋艦5隻、駆逐艦44隻および海兵隊5000人を乗艦させた揚陸艦を含む艦艇65隻、兵員4万6000人という第2次大戦後最大の海軍兵力をベトナム沖に集中した。また、 湾岸戦争では「砂漠の楯」や「砂漠の嵐」作戦に4個の空母打撃部隊を展開し、 1万4000回以上の出撃を行い、120隻以上のイラクの艦船を撃破し、 220発以上のトマホーク巡航ミサイルを発射したという。

おわりに

 第7艦隊は“平和のための即応力(Ready Power for Peace)"をモットーに、 航空打撃力、 水上打撃力、 海兵隊による陸上戦力の投入から機雷敷設や機雷掃海に至るあらゆる機能を保持しつつ横須賀を主基地として展開されているが、 その誕生はアメリカ海軍が対日戦争を想定して着々と整備してきた海兵隊を主軸とし、 それに日本海軍が世界に示した空母機動部隊を合体させたものであった。 また、 第7艦隊の長期展開能力は太平洋横断作戦により改善強化されたものであった。 とはいえ、 その構成や運用はアメリカ人の国民性を色濃く表していることも事実である。 すなわち、 軍隊を持たなかった入植直後のアメリカ人はインデアンの襲撃に、 射撃の上手な者は射撃を、 下手な者は弾込め作業を、 そして婦女子は負傷者の手当など、 開拓時代には必要な時には総員がそれぞれの能力に応じて力を発揮して戦った。 しかし、 インデアンが去ると元の市民に戻り開拓に従事した。 このような歴史体験から「有事増強・平時縮小」の第7艦隊という任務や相手の能力に応じて部隊を臨時に編成して戦うという任務別、 機能別組織の第7艦隊を生んだのでもあった。

参考文献
木俣滋郎『日本空母戦史』(図書出版社、 1981年)。
海軍編集委員会編『海軍 海軍航空 航空隊 航空機』(誠文図書、 1981年)。
Roger chesneau, Aircraft Carrier of the World:1914 to Present
(U.S.Naval Institute Press, 1944).
R.D.Layman, Before the Aircraft Carrrier:The Development of Aviation Vessels,
1849-1922(U.S.Naval Institute Press, 1989).